数点

 ①靫(うつぼ)公園・大阪城公園*1での行政代執行(=野宿者の強制排除)に関して、生田武志さんのウェブに経過報告とコメントがある。自分に言いうることは何もないので黙ってましたが、皆さんも下記を熟読してみてはいかがでしょうか。

http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays8.htm

 靫(うつぼ)公園の行政代執行には前夜から執行終了まで現場にいた。様々なことがあったが、その様子については釜ヶ崎トロールの会・ブログなどで見ることができる。
 また、これはまったく報道されていないが、両公園の行政代執行と同時刻に、野宿者ネットワークの関わっている西成公園で、市職員70名を動員した抜き打ち工事が始まっていた。さらに、扇町公園のテント4張りを撤去し、抗議行動に参加していた西梅田公園の野宿者のテント1張りを撤去していた。今までなかった大阪市側の同時展開作戦。今後、野宿者問題の焦点が靱公園大阪城公園から西成公園へとただちに移っていく可能性が極めて高く、緊張がとけない。
 今回の行政代執行は、行政の「やるときはやってやる、文句あっか」という強引さはもちろんだが、報道を通じて野宿者と支援者のイメージがかなり悪化したのではないかという印象も持っている。 例えば、当日夜のテレビ朝日報道ステーションでは「行政は自立支援センターなどを用意しているが、ホームレスたちは自由がないなどとして入りたがらない」と言っていた。完全に偏見を煽っている。(関西テレビのローカルニュースがマシだった)。31日の朝日新聞の「行政もホームレスも歩み寄りを」(どっちもどっちだね)という解説も閉口したが、2月1日づけの記事になると見出しが「『野宿が気楽』 施設敬遠」だ。野宿者問題の現場にいる者にとっては信じられないようなねつ造である。
 現場を知らない一般の人はこうした報道を見て、「公園を不法占拠しているホームレスとその支援者とかが、行政の施策を無視し、こともあろうに公園に居座ろうと楯突いている」という具合に見るのかもしれない。「2ちゃんねる」のこの件についての書き込みも凄かった。そこで「支援団体」とリンク付きで名指しされた「釜ヶ崎トロールの会」には普段はほとんどないコメントが100以上つき、「おまえらが不法占拠のホームレスを甘やかしている」「支援団体はホームレスを自分の家に引き取れ。そうしないで支援と言っているのは偽善だ」みたいな書き込みが今も続いている。
 野宿者ネットワークのホームページも31日からアクセスが3倍ぐらいになり、「団体がホームレスを引き取って保護しては?」「そもそも、路上で生活するという行為は軽犯罪法に違反している」といったメールが何通かきた。靫・大阪城公園のニュースを見て、「支援団体ってどんななのか」と見にくる人がかなりいるのだろう。下に、そうしたメールへの返信内容を引用しておく。
 一方で、靫・大阪城公園の行政代執行のニュースを見て、野宿者問題のページを捜し、野宿者ネットワークのホームページを見つけて夜回りに参加した、という人もいた。かつてのイラク人質事件での「自己責任論」騒動が思い出されるが、今年のこうした動きがどのように転がっていくのか、いまはまだよく読めないでいる。

 メールをありがとうございます。
 疑問にいくらかでもお答えしたいと思います。

 一つは、
 「確かに、中には「ホームレスを望んではいないが、止むを得ず路上生活しなければならない」という人もいるでしょう」という点です。これは前提となる事実の問題ですが、
 2003年の厚生労働省による調査では「路上生活に至った理由」として、
 「仕事が減った」が 35.6%、「倒産・失業」が 32.9%、「病気・けが・高齢で仕事ができなくなった」が 18.8%とされています。
 つまり、事実上「失業」による野宿がほとんどです。わたしたちは毎週夜回りをし、そのほかにも日常的に野宿をしている人たちと関わっていますが、そこで出会う野宿者の多くが「仕事さえあればこんなところ(公園・路上)で寝ていない」と言っています。というより、その人たちは仕事があった時は野宿していませんでした。事実として、野宿者とは失業者のいわば最終形であり、根本的に就労問題なのです。
 また、各種の調査で明らかなように、そして夜回りなどをすればすぐに分かるように、野宿者の大多数はアルミ缶やダンボールを集めて生活しています。アルミ缶の場合、1個集めて1.5円、つまり100個集めて150円という収入です。1日中探し続けても1000円いくかいかないかという超低賃金重労働です。そんな割に合わない仕事をしているのは、ひとえに「他に仕事がないから」です。
 実際、野宿者が激増したのはこの10年間ですが、それは失業率の推移とほぼ平行していました。「ホームレスはしたくてしているだけだ」という意見はよく聞きますが、もしそれが正しければ、この10年の間に日本で野宿が好きな人が突然増えたということになりますが、そんな奇怪な話はありえません。

▼「そもそも、路上で生活するという行為は軽犯罪法に違反しているということをご存知でしょうか。」
 知っていますし、野宿をしている人たちも知っています。問題は、ではどうすればいいのかということです。
 路上や公園などの「公有地」で生活することは「不法占拠」とされています。しかし、世の中には「公有地」の他には(おおざっぱに言うと)「私有地」しかありません。そして、他人の「私有地」で生活しようとすると、今度は「不法侵入」で訴えられます。まさか他人の家に入って暮らすわけにはいかないのです。
 現実に、大多数の野宿者が「仕事と部屋のある生活」に戻りたいと思っています。しかし、そのための手だてがきわめて少ないという問題があります。そもそも、ハローワークに行っても、「住所が野宿状態」では相手にしてくれません。また、仮に就職できたとしても、いままでアルミ缶やダンボールを集めていたのに、今度は給料日までの生活費に困ります。つまり、金がないと就職もできません。また、野宿者の多くは50代であるため、そもそも就職先がなかなか見つかりません。
 こうした問題を少しでも解決するために、様々な支援団体が努力をしています。まず、大阪全体で路上死する野宿者が毎年200人以上という現実があり、それに対応するため、夜回り、医療相談、炊き出しなどの活動が行なわれています。また、生活保護の手続き、法律相談、職業訓練の支援、無料宿泊なども行なわれています。
 「団体さんがホームレスの方々を引き取って保護されてはいかがですか?」とありますが、大阪だけで1万人近くの野宿者がいる以上、わたしたちの限界は別としても(自分たちなりに時間とお金をつぎ込んで活動していますよ)、そうした手段で問題が解決するわけがありません。そもそも、失業問題が根底にある野宿者問題は、社会的な就労問題・社会保障問題として解決するしかありません。善意の個人が引き取ればよい、という考え方は明らかにちがいます。野宿者問題を「個人の責任」「自業自得」という考え方がよくありますが、「引き取ればよい」というのは、野宿者問題の解決策を「支援者の責任」にしてしまっているだけです。
 例えば震災で家を失った被災者へのボランティア活動をする人に向かって、「支援するなら被災者をおまえの家に引き取れ」などと言う人がいたら完全におかしいと思いますが、それとほとんど同じです。
 また、新聞などで報道されたように、行政は「野宿者は自立支援センターに入れ」と言っています。この施設では、最大で半年間いることができ、そこから仕事を探すことができます。いまのところ、ここからの就職率は40〜50%とされています.。ただし、就労の内訳を見ると、常雇いではなく臨時雇いの清掃員やガードマンが多いという特徴が出ています。
この自立支援センターに入ることももちろん可能ですが、ここから就職できるのは「年齢が若い人」 「使える資格がある人」に集中します。つまり、まだ若いとか、使える資格を持っているとかいう人はそれなりに行く意味があるのですが、そうでなければ3ヶ月(あるいは半年)たって野宿に戻る可能性がきわめて高いのです。もちろん、自立支援センターに入るときは公園のテントをたたんでいくので、野宿に戻ると寝場所探しからまた始めなければなりません(また、自立支援センターの多くは「二段ベッドの10人部屋」という居住状態で、数ヶ月でも生活し続けるのはかなり大変だと言われています)。そして、自立支援センターの定員は大阪で数百人ですから、文字通りの「焼け石に水」状態なのです。
 野宿者問題に関わっている人ならみんな知っていることですが、野宿者の多くは「50代で、入院するほどではないが体がどこか悪い」という人が大多数です。つまり、自立支援センターに行っても就職の可能性が少ないし、かといって生活保護を申請しても通る見込みがほとんどないというケースばかりです(行政は、50代の野宿者の生活保護申請はほとんど門前払いしてしまうか、申請を受けても「就労努力がない」という口実で数ヶ月で切ってしまうことが多いのです)。つまり、簡単に「乗れる」話ではないという現実があります。
 ではどうすればいいのかというと、「働ける人には仕事を紹介する。あるいは職業訓練をする」「仕事のできない人には生活保護を適用する」ということだと思います。
 「生活保護法」は、ご存じのように「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行ない、その最低限度の生活を保障する」もので、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という「生存権」の規定に基づいています。
 野宿者とは、失業の結果、住居を失い、月収が平均2〜3万円しかないという「究極の貧困」問題です。もちろん、生活保護の対象です。しかし、野宿者が福祉事務所に相談に行くと、たいてい、こう言われて追い返されていました。「あなたはまだお若いじゃないですか。まだ働けるでしょう」「あなたには住む家がないじゃないですか。住所のない人には生活保護はかけられませんよ」。
 今まで行政は、生活保護の適用は「住所があって」「60〜65歳以上」の人に限るという方針を採ってきました。実は、これは法律的根拠がまったくないただの「慣例」です。住所があって収入がなくなった人については保護をかけるのに、住むところさえ失った野宿者には生活保護を拒否するという、わけのわからない対応が今までまかり通ってきました。
 野宿者への生活保護の適用のため、様々な支援者・団体が活動しています。一緒に役所に行き、役所と相談し、アパートを探し、などの活動によって、部屋のある最低限度の生活を取り戻しています。その上で、再び就労していく人もいます。
 「路上で生活するという行為は軽犯罪法に違反している」という話がありましたが、それ以前に行政が憲法と法律(生活保護法)を遵守していないという現実があるのです。
 また、いわゆるホームレスは欧米では日本とは桁違いの多さです(例えば2004〜5年の冬季、ニューヨークでは39000人がシェルターで寝ており、さらに数千人が路上で寝ています)。しかし、先進国で日本ほど路上で人が野宿している国はないと言われています。多くの国では、生活保護水準に近いシェルターを公的、私的に運営しており、ほとんどのホームレスはそこで夜を過ごしているからです。
 野宿者問題にとって最大の課題は「仕事」です。例えば、ビッグイシューのように野宿者自身が路上で雑誌を売る事業が最近現われています。そうした野宿者支援の会社の起業は、欧米では珍しくありませんが、日本でもようやくそうした起業家が誕生してきているのです。
 また、わたしたち野宿者ネットワークが属している「釜ヶ崎・反失業連絡会」は、大阪府大阪市との交渉の結果、55歳以上の野宿者を対象に、道路や公園、保育所の掃除・整備の仕事を公的に出す「公的就労」を実現しています。これは、輪番制で3000人ほどの野宿者が登録して、順番に一日5700円の仕事をしています。いままで整備がされていなかった公園、予算がつかないためにボロボロだった保育所がきれいになり、「こっちも来てくれ」「あっちも行ってくれ」と非常に好評です。仕事をしたくてもできなかった野宿者が社会に役の立つ仕事をして、それでお金が少しでも入るのですから非常にいい事業です。
 しかし、この事業によって野宿者が仕事に就けるのは一ヶ月に3回程度です。つまり、月に入るのは1万6000円ぐらいです。これは野宿を脱するほどの収入にはならず、あまりに中途半端な規模です。この事業のための予算は数億ですが、以前に大阪市の職員への厚遇問題で100億円以上のカットが検討されたことを考えると、お金の使い方が何か間違っているのではないかと考えざるをえません。
 そもそも、行政代執行で野宿者を公園から追い出しても、行き場所のない野宿者は他の公園や道路に行くだけで何の解決にもなりません。野宿者にとって、そして支援者にとって、最も望ましいのは「仕事と部屋のある生活」に戻ることです。近隣の住民にとってもそれが最も望ましいはずです。つまり、全員の希望は一致しています。ただ、行政がおもいっきり中途半端な対策しか出さないため、野宿当事者と住民に不必要な軋轢が生じ続けているという面があると思います。
 もちろん、わたしたち支援者の力不足は常に痛感していることです。今後とも力を尽くしていきたいと思っています。


野宿者ネットワーク

 ところでlessorさんのブログに「大阪の野宿者の強制退去のニュースがTVで流れていた。介護職員たちがみんな「あんなの早く無くしちゃえばいいのに」「子どもを連れて行けない」という反応。高齢者は包摂、野宿者は排除。その根拠ははっきりしない」(http://d.hatena.ne.jp/lessor/20060130)とあって、本当どこも同じだと思った。


 ②「生の無条件の肯定」について、川口さんのブログ(とコメント欄)が凄い。


http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20060129

2006-01-29 ケアをめぐるアイデンティティと理性について
 昨日から二日間連続でさくら会のケア研修会で今回も定員いっぱいである。朝から制度と倫理について話をする予定。1時間半しかないから、長くは話せないけど、イギリスと日本の難病医療をめぐる制度とケアについて、紙芝居方式で話すことになるだろう。

 シデナムのSt.Cristopher's の多職種ケアやスピリチュアルケアには興味がなく、お金をどう集め運営しているかにこそ興味がある。半分はNHSからだというから、日本でだってできないことはない。いかに病院や施設を地域に開いていくかを真剣に考える時期だろうと思う。そんな私の思いは今日は語らず、ケアと倫理の国家間格差について分かりやすく実態を説明するつもり。

 ALSの話になると、どうしても自文化主義に陥り、他国の倫理や制度について批判がましくなってしまう傾向があるのは、新年早々にある方からご指摘を受け深く反省している。だから、今またセンの『アイデンティティに先行する理性』を読み直している。一昨年、立岩氏に紹介れたときには、センも立岩さんも私に何が言いたいんだかわからなかったけど、今はバイブルのようにして時々読み返している。(が、無理もある・・)

 国境や社会的なアイデンティティは私の重要なテーマになりつつあるし、私は意識的に理性的な人でいることをやめてきたのだけど、また立ち戻って合理的な判断とやらをしてみなければ、たぶん彼らの気持ちもわからないままになってしまうだろう・・・。だが、究極の選択を前にすれば、わざと理性をふっとばすしかなかったし、こうしなければ生きてこられなかったんだ。一度確立したアイデンティティを変更するのって、けっこう辛いのだ。

 研修会終わって帰ってきた。今日の研修生は看護学生を中心に全員ALSヘルパー候補30名である。こんな研修会が日本中でできたのならいいのに・・・。中野や練馬のように在宅医や看護の見守りの中で、医療的ケアが一般化していくのなら、きっとバクバクの子たちも自宅で過ごせすり、学校にも普通に通えるだろう。きっとALSの人たちも迷うことなくTPPVを開始するだろう。大げさなんだみんな。人工呼吸器をつけてごらん。患者さんたちは、皆、こんなに空気が美味しいなんて知らなかったというじゃないの。

 明日は、某代議士の友人のお父さんが家族の意向で呼吸器をつけて、その後、いわゆるスピリチュアルなケアができずに困っているというので、昼から議員会館でご飯食べながらその代議士の相談に乗ることになっている。人は身近に患者が発生して初めて現実を垣間見るのだ。うちの区もある時から突然ALSの待遇がよくなったのも、自民党の某区議のお父さんがALS罹患したからだった。あれから、要求すれば簡単に支援費がもらえるようになった。結局、国家予算の取り合いということになれば、強い人が好きなだけ持っていくのだ。なんでもそう。数名の権力者の好きなように社会が動いている。国家予算の話などではなく、それを配分するもは誰かということだ。その人が欲しいといえば、金はどこからでも湧いてくる。問題は経済でも何でもない。

[コメントを書く]
# mojimoji 『的外れだったらスイマセン。「生を無条件に肯定する」ことに、文化相対的な何らかの理由から留保がつけられたりするようなことはあり得ないと思うのです。自文化だろうと他文化だろうと、それが殺す文化なら、批判・非難されるべきではないか、と。/センの本に書かれていることは、無条件に生を肯定されている人がどのようなアイデンティティを持つかという話なので、まず生を留保抜きに支えるとした後の話じゃないかと。』

# ajisun 『いえ、全然的外れていません。ここのところ、自分の書いていることに矛盾と戸惑いを感じています。人々の願いは全国共通、家族の思いも同じはず。でも、それができる国とできない国があるのは、確かに政治のせいもあるけど、民俗的な倫理観の違いもあるようです。とくに医療分野における倫理観「何をもって生きる価値とするか」というQOLを取り巻くいくつかの命題では、地域格差がはなはだしく、(これは何も国境レベルの話ではなく、県境レベルです。県で倫理観はまったく違っています)とすると、私はどうしても、他文化に批判的になってしまうんです。でも、批判的になると理解しあう前に、わかってもらう前に分裂して対話がなくなってしまう・・。』

# mojimoji 『ぁぅ、批判して、その先にある拒絶が問題なんですね。的はずれではなかったにしても、ノー天気なことをゆーてしまいました。orz/この拒絶の問題に対しては、拒絶されないようなレトリックを、ではなく、拒絶という文化そのものを打ち破っていかねばならんとは思うんですよ。しかし、それでは「今」の問題には間に合わない。正直、神になれるものならなりたいもんです・・・。愚直にレヴィナス風に<他者>として立ちはだかっていく以外のやりようを思いつかない。』

# shinichiroinaba 『 最近思うに「生の無条件な肯定」は民主主義とは両立しない可能性があると思います。
 理念的な「討議民主主義」においてなら、可能性はあります。論敵を打ち負かせればよい。打ち負かされた論敵は素直に従ってくれます。(自分が論破される可能性はおいときましょう。)
 現実の民主政治ではそうはいきません。正しい主張が討論に勝つ保証がないし、勝ったところで論破された相手が素直に従ってくれる保証がありません。いきおい「妥協」だの「レトリック」だのが忍び込みます。
 むしろ「生の無条件な肯定」は、法的な概念として人権論の枠内で議論することにして、議論のありようも、議会モデルではなく、法廷モデルで考えた方がまだましなのではないか――と最近考えているわけですよ。
 いえ、どうも最近のリベラル憲法学者が、人権の保障機構としては議会制民主主義よりも司法審査の方に期待している度合が高そうなことからの連想ですが。いわゆる「立憲主義」ですか。

 信じないとは思いますが、ぼくは「生の無条件の肯定」派なんですよ実は。』

# ajisun 『>mojimojiさん。どうも。御前に最初から両頬を差し出してしまっている者の立場からはですね。もう一方も差し出しなさいなどというキリストはだーめだーめなんです。ところで、拒絶という文化こそが、共同体を守る壁なんでしょ?私は共同体主義者じゃないんだけど。誰も信じてくれないと思いますが(笑)
>inabaさん、inabaさんの良心的かつ辛口な長文を読んでいると、まるで厚労省の彼らの話を聞いているみたい。彼らもまた「生の無条件の肯定」派なんですよ。私たち、死にたい人は死ねばいいとずっと言っています。だって、ALSで楽しく生きるのは、そんなに簡単なことではないから。無条件な肯定はしますが、それはどうしても生きたいという人のみです。でも、どうしても生きたいという人は、生かせてあげる方法を考えてあげて。法でも倫理でもなく、これからのALSは経済学でなければ駄目だ、闘えないなと私は直観しています。どんなに希少な難病患者であっても、多数決に負けずに、生きたいならば生き延びられる道徳をどう導き出すかが経済学者の良心なのでは?でしょう?』

# shinichiroinaba 『でも一番大切なことを申しますとね、経済学では生産性は(ほとんど)上がらんのですよ。経済学は大体において、既存の生産力の範囲内で何をどうするか、の学問ですから。ときと場合によってはここは素直に医療技術至上主義者になるというのもありでしょう。』

# ajisun 『またしても、わたし矛盾したことを言いそうになりました。つまり経済学はママの役目ですよね、ケーキを切り分ける・・。医療技術至上主義というのもまたやっかいな話ですね。お薬を使わない、入院させない、でタダ同然に自宅で手早く死なせる方法(ケア技術)が持てはやされつつありますから。そして、それが幸せなんだと刷り込みが始まっているのです。でも、本人は、しまったと思っているかもしれません。まだまだ生きられるとわかっているのに、ケアしてもらえないからです。でも言葉にできないので殺すなって言えません。まず最初に医療にたくさんの資源配分をしてもらうことがどうしてそんなに困難なんでしょ?人間にとってもっとも大事なことではありませんか?使わなければ後から返せばいい、っていう立岩流の考え方では通用しないの?なぜ最初からたくさんを分けてもらえないの?誰にとっても平等に大事なことなのに。』

# shinichiroinaba 『経済学者はそれを「資本市場が不完全だから」ととりあえず答えるでしょう。当然「なぜ不完全なの?」となるわけですが。』

# ajisun 『inabaさん、な、なんか自問自答になっておられますよ。ですが、ホントに「なぜ不完全?」と市民は聞きたくなりますし、「そこをなんとかして欲しい」とも言います。どうにかしてください。』

# dojin 『>ALSは経済学でなければ駄目だ

ちなみに介護保険の経済学的実証分析は、マイクロデータを使った介護サービス需要の所得弾力性や価格弾力性の推定、介護保険事業所の効率性の分析、居宅サービス増大要因の分析、介護保険財政の持続可能性の分析などが主流のようです。

一言で言えば、要介護者や介護サービス供給者のインセンティブの実証分析と、そこから見えてくる介護保険制度の持続可能性です。もちろんもっといろんなことを言ったり考えたりしていますが、大方そんなところだと思います。

これらの分析は大切ですが、どうしても欠落してくるのが「ニード(必要)を満たすにはどのような介護・医療保障制度にしたらよいか、そのためには財政・税制・保険料をどうしたらよいか」という視点です。

というのも、経済学者は、規範理論をやっている一部の厚生経済学者を除いて、「需要」を考察するのは得意でも、「ニード=必要」を考察するのが不得意だからだと思います。

先日も、行政にけっこう影響力があり、介護保険も専門の一つである財政学者と話していて、「介護保険はそもそも量的にもまだまだ不十分だと思う」みたいなことをいったら、「そうかなぁ。。。」と言ってました。

頭は切れるし、介護保険に対しても私の何倍も詳しいのですが、「ニード=必要」の水準の話になると、公共経済学者が理論的にいえることはほとんどないのではないでしょうか。実証分析が一定の「価値中立性」を要求し、給付増が負担増に直結する以上、そういう問題は経済学者ではなくて国民が決めること、と考えている面もあるでしょう。

こうなってくると、ajisunさんの直面する厚生官僚の問題と似たような構図ともいえます。

ただ、彼らは数字に詳しい分、難病や障害者に対する総給付額が介護保険財政全体と比べてそんなに大きくないことは分っていますから、ニーズの重大性と財政的実現可能性をきちんと訴えれば、その通りだと頷く人もいるかもしれません。残念ながらそういうことをきちんと分析して言う経済学者は今のところいないようですが。

良心的なミクロ実証系の社会保障学者、財政学者をブレインにして、そういうことをいわせるっていうのはどうでしょうか?

あとはやっぱり議員さんですか?民主党のやまのい和則のメーリスによると、今日ALS協会の人と厚生労働省の担当者と議論したそうですね。』

# ajisun 『皆様、どうもありがとうございます。お忙しい中お付き合いくださって・・。
私も、dojinさんのおっしゃるとおりと思います。今、実は厚労省の研究班で「在宅重度障害者の効果的な支援の在り方」を調査していますが、私はALS患者家族のニーズ調査を担当しています。質的に実証するものですが、データは数字で出す工夫をして面白い結果になっています。数名の患者を対象に個々の身体が要求する介護時間数を24時間、1分きざみで計測しました。それによると何も難しいことはなく、足直す/手の位置直す/寝返りする、みたいな単調な介護が延々と続くわけですが、生きていくために必要最低限の介護というものでしょうか。これを他者が代行しないと、患者はあっという間に弱って死んでしまうわけですから、生存がかかった介護とでもいいましょう。それで算定したら1日、1855分、2157分、2046分・・・という具合で24時間1440分を大きく上回る介護が必要だとでました。ALSの場合、最低限生存に必要な介護者は一人では足りないということです。そして、作成中の図表を見れば一目瞭然なのですが、標準化などできないということでもあります。介護保険制度等の施策は常に「標準化」が目指されますけど、人それぞれの身体のニーズはケアをする人もタイミングも自分で選びたいものですし、それを贅沢とは言えないでしょう。
昨日はやまのいさんをはじめ、谷さん、園田さんなど民主党中心に議員さんに会ってきましたが、情報早いですね。谷さんの秘書さんにも、ここバレましたし(笑)。いずれ在宅医療に関しては超党派議連をつくっていただきたいと思います。
良心的な社会学者も財政学者も、わずかではありますが、集まってきていますよ。どうぞ今後ともよろしく。』

# mojimoji 『inabaさん>信じてもらえないかもしれませんが、ぼくは「稲葉さんが「生の無条件の肯定」派なんだ」ということを疑ったことないんですよ。

法廷モデルと議会モデルについては、規則のパラドクスの話なんかをいろいろ読んで思ったのですが、法廷モデルは劣化議会モデルにしかならんのじゃないかと、思っています。法学者が法廷モデルに行こうとするのは、法学者のイドラと言うべきものかと。この点はこんな言いっぱなしじゃなくて、ちゃんと詰めた議論を作っていかなきゃならんところで、目下努力中のところでもあるわけですが。また、dojinさんご指摘の点、「需要」を考察するのは得意でも、「「ニード=必要」を考察するのが不得意」というのは、おっしゃるとおりだと思います。(経済学者のイドラ?(笑))アマルティア・センの潜在能力という概念は、これを捉えるために編み出されたものですが、その安直さゆえにか(安直にしかなりようもないとは思うのですが)、「そんなん当たり前やんけ」的に流されている、という感じです。ニードについて考えるのが不得手であるという点をもっと具体的に言えば、ニードと需要の区別がついてない、同じものだと思っている、とまで言えるように思います。

資本市場の不完全性の原因は、人の生を無条件に認めないことの帰結を自己欺瞞と騙しによって覆い隠しているからではないかと、とすれば、小泉義之さんのような議論は、「問いただし、答えさせる」ことによって、情報の非対称性を乗り越えて資本市場の不完全性を乗り越えようとするものだと、そのように言えるんじゃないか、と、結構本気で思っていたり。(こんなベラベラと立場表明して後で追い込まれんかなぁ、と心配は心配なわけですが。)』

# ajisun 『その議会モデルにこれから行ってきます。3日11時ごろから。参議院の中継をご覧くださいませ。』



 ③以前紹介したブログマガジンのインタビューを、梅山景央さんがウェブにアップしてくれた。


http://passage.tea-nifty.com/firedoor/2006/02/post_8c63.html

*1:西成公園で行われたのは行政代執行ではない、と支援者の方からメールを頂いた。訂正して謝します。3日。