湯の峰、時宗、らい病

 熊野では初日に湯の峰温泉に泊まった。
 湯の峰は、熊野大社の近くの湯場で、熊野詣の前に身を清める湯垢離場であった。説教や浄瑠璃の『小栗判官』で有名な「つぼ湯」がある。辺りは硫黄のにおいがほのかに立ち込めている。
 餓鬼阿弥と化した小栗判官は、照手姫の車に引かれ、この湯につかって「再生」を果たしたという。
 湯の峰は、踊り念仏の一遍上人とも関わりが深く、一遍が「南無阿弥陀仏」と爪書きしたと言われる「一遍上人名号碑」が、宿泊した宿のすぐ前にあった。
 つぼ湯から坂を少し下ったところにある東光寺は、後鳥羽上皇勅願所で、仏教伝来以前の仁徳天皇の時代(313〜399)にインドから熊野に漂着した裸形上人の開基とも伝えられる。現在は天台宗の寺だけど、室町時代頃には、温泉とともに時衆の聖の管理下にあったらしい(本尊は薬師如来)。
 『熊野詣』によると、このつぼ湯は、らい病者の心身の癒しのための湯でもあったという。
 中世にはらい病は「がきやみ」とも呼ばれていた(折口信夫「餓鬼阿弥蘇生譚」)。
 時宗は、らい病者の熊野詣を積極的に支援していたらしい。五来重によれば、当時、共同体や家族からも排斥された病者たちの中で、熊野の地にある種の救済・病気平癒を求めた人々は少なくなく、そんな人々が熊野に集まるようになったのも、時宗の聖念仏が熊野の勧進を独占した時期に重なるという。
 照手姫の車に引かれた小栗判官もそうだけれど(湯の峰には照手姫の車塚もある)、病気が進行し手足が崩れ、あるいはびっこに、あるいはいざりになった人々は、土車(箱に車輪をつけたもの)に乗って、道行く人に車をひいてもらうか、下駄を両手にはめて自力で急な山坂を越えていった……
 想像するだけで凄い話。僕らは那智大社へ続く大門坂を登っただけだけど、息もたえだえ。
 土車は車椅子のようなもの。それを引く人々は熊野詣を共にするガイドヘルパーのようなもの。現在でいえばそういえるのかもしれない。
 そうした介助(?)の様子は『一遍聖絵』に記されてもいる。
 時宗の信者達は、車を引くガイドヘルパーのネットワークを作りつつ、同時に、「乞食」やらい者に膨大な飲食物を分配していたそうだ。
 時宗の信者達の介助と分配のネットワークがあって、はじめて、らい者の熊野詣が可能になったのかもしれない。
 もちろん、手放しで褒めるべきではない部分、暗い部分、つらい状態の人を利用し何かを掠め取る部分も色々あっただろう。歴史の闇はもっともっと深かったこともあるとも思う。しかしそれでも、当時の状況でそんな障害者介助のネットワークを生み出した時宗エナジーには、凄みを感じた。
 先日、親鸞の『歎異抄』をずいぶん久しぶりに読み返していて、これが「私的救済」(自分の能力で救済が可能だという思い込み)批判の書であることを、思い返した。そこでは「悪人正機」が言われる。浄不浄も否定される。
 時宗も、「不浄をきらわず」を謳い、当時、熊野の地において「赤不浄」と呼ばれた産穢・月経穢や、「黒不浄」と呼ばれた死穢を受け入れたのである。そういう「場」とネットワークが目指されたのだ。
 善悪、浄不浄などを方法論的に懐疑しつつ「救済」のポテンシャルを押し開き、仏教をラディカル化した鎌倉新仏教は、どこか「きみがわるい」(武田泰淳)ようなラディカルな「平等」への志向をふくんでいたのかもしれない。
 初日の夜、窓の外の水の音を聞きながら、そういうことを思った。
 帰ってきてから、学生時代に読んだ柳田国男の『女性と民間伝承』『妹の力』『毛坊主考』などを引っ張り出して、読んだ。