東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』のクリティカル・ポイント



 『ゲーム的リアリズムの誕生』(二〇〇七年)の「付録B」の「萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について」に心を動かされた。もともと、共著『美少女ゲームの臨界点』(二〇〇四年)に収録されたものだという。そちらの論集は僕の手元にはない。



 『ゲーム的リアリズムの誕生』に付された短いこの「付録」は、おそらく、前作『動物化するポストモダン』(二〇〇一年)ばかりか、本作『ゲーム的リアリズムの誕生』の中の一つの死角をも、内側から食い破るように自己批評している。そのように感じられた。そこに心を動かされた。


 東浩紀はそのオタク論を展開する場合に、しばしばエロゲー美少女ゲームについて論じてきた。にもかかわらず、エロゲーのポルノ的な側面、あるいは性暴力的な側面には積極的に触れようとはしてこなかった。不思議な自然さでその点を避けて通ってきた。


 男性のセクシュアリティやポルノ的な側面を無視して、物語の構造やメタフィクション性、萌え要素やデータベースの問題だけを論じるのは、やはり難しいのではないか。それらの問題は不可分に絡み合っているのではないか。素朴なようだが、そう感じてきたのである。


 しかし「付録B」の「萌えの手前、不能性に止まること」では、エロゲーを嗜好し消費する男性オタクたちのねじれたセクシュアリティの問題が、内側から――東自身の無意識をもえぐるように――分析されていた。ぼくはそれを知らなかった。無知と不明を恥じた次第である。


 ところでササキバラ・ゴウは、次のようなことを論じている(『〈美少女〉の現代史』)――一九七〇年代以降、日本の男性たちは、かつての政治的理想や経済的成功のようなはっきりとした生の目的(大きな物語)を見失い、自分たちの中の「男性的(マッチョ)」な側面に耐えられなくなった。だからこそ女性たちの中に、男性からの暴力を受けた「可傷性」を見出したのであり、その反作用として、「男」としての自分たちを「傷つける性」として自覚していったのだ、と。


 二四年組のマンガや村上春樹の小説の中には、自らの暴力性におののく「男の子」たちが登場する。それは一面では、男たちが繊細な優しさを獲得することだった。しかしそれは同時に、男性たちにとっての政治的・経済的な「敗北=転向」をも意味した。『カリオストロの城』のルパンが象徴するように、男の子たちはもう、社会的な立身出世や政治的闘争ではなく、美少女(クラリスやラム)から承認されることによってしか自分(たち)のアイデンティティを支えられないのである。


 そして一九九〇年代以降のエロゲー的な男性主体は、こうした七〇年代以降の挫折と不能感を、再びひっくり返し、男たちの全能性を捩れた形で回復しようとする欲望をもっていた。すなわち、男性=プレイヤーは、少女たちを一方的に「陵辱する視線」を獲得し、自らを「(女性から)見られずに(女性を)見る」「透明な存在」と化していったのである。


 彼らは一見、ひ弱で無能な男の子に見える。女の子に繊細に優しく振る舞おうともする。むしろ能動的で主体的なのは女の子たちの側であり、彼女たちの行動や騒動に巻き込まれているだけだ、という受動性を帯びている。しかし、そうした無力さと受動性こそが「零落したマッチョイズム」(更科修一郎)の裏返しなのである。


 一九九〇年代以降のエロゲー的な欲望の主体は、たんに全能なマッチョなのではなく、ある種の零落した無力さ(非モテ、受動性、繊細な優しさ)と全能感(複数の女性から不自然な形でモテる、女性を性的に凌辱しうる)を両立させることによって、男性的な主体性を回復してしまったのだ。


 東もまたはっきりと、オタク的な主体の零落性とマッチョ性という「二面性」を論じていく。「美少女ゲームとは、まずは、プレイヤーを男性の等身大のキャラクターに同一化させ、仮想空間のなかで異性の承認を与え、「モテる男」にしたてあげる、すなわち、「父」にさせるジャンルだと定義づけることができる」。しかし、東の論点は、オタク男性のアイデンティティを分析するササキバラの論点とは微妙に異なる。

 《そこでは、プレイヤーは、オヤジになれない弱さを自己肯定してもらうとともに、オヤジ以上にオヤジ的に振る舞うことができる。美少女ゲームを、単純に「父にさせる」ジャンル、すなわち家父長制補完的なジャンルだと捉えるだけでは不十分なのは、このような二面性を捉え損なうからだ。
 『動物化するポストモダン』で記したように、美少女ゲームのユーザーは、ひとりのキャラクターを擬似的に恋愛し、泣き、笑い、責任を感じておきながら、同時にほかのキャラクターにも萌えることができる。その節操のなさ、同書の表現を借りれば「解離」(多重人格性)が彼らの本質である。そのメンタリティは思春期の男性であればだれでも備えているものだが、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの分離を特徴とする美少女ゲームは、その解離を構造的に強化してしまう。》



 一人の女の子を深く愛する。そう心に決めた次の瞬間に、別の女の子を同じように愛したり、むりやり強姦したりすることができる。しかもそのことに(表面的な悩み方はするが)深刻な矛盾を感じない。それが「解離」である。ポイントは、東がササキバラのようにそれを「凌辱する視線」、「見られずに見る」ような窃視症的な眼差しに対する道徳的な批判として展開したのではなく、症例的な「乖離」の問題として分析していることだ。


 ササキバラがいうような「凌辱する視線」がはらむ「零落したマッチョイムズ」(現実的には無力な存在だからこそ無限に窃視症的な権力を持ちうる)に対しては、その欺瞞性を突いて、道徳的な批判を加えることができる。しかし、分裂=乖離についてはそれだけでは足りない。むしろ道徳的に正しい批判は、オタク的主体の乖離=分裂を深め、より強化していく。では、どうすればいいのか。


 先の引用のあとには次のような文章が続く。

 《解離を解離のままに受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる。しかし、オタクたちの多くは、むしろ、その分裂を強引に埋め、アイデンティティを捏造している。そこでしばしば使われるのが、「ダメ」という言葉である。私たちは「ダメ」だから、父になるつもりはないけれどオヤジ的欲望は抑えられない、と彼らは自虐的に語る。彼らは、二つの基準のあいだを恣意的に往復し、一方では少女マンガ的な内面に感情移入しながら、他方では一般のポルノメディアをはるかに凌駕する性的妄想に身を委ねる。》



 「分裂」や「乖離」を「強引に埋め、アイデンティティを捏造」することは「零落したマッチョイムズム」の回復になってしまうが、そうではなく、「自らの分裂をはっきり認識」し続けるならば、男性オタクたちは自らのオタク性を否定しないままに「倫理」的な男性オタクになれるはずだ。東はそのように論じる。


 しかし、ここは難しい。東の論述もこの辺りで困難な動揺、揺れ動きを示していくように見える。それまでの論述に従うならば、解離を強引に埋めて強い「父」「男」になろうとするからのみならず、まさにその解離そのものからアパシーな性暴力が湧きあがってくるようにしか思えないからだ。


 異性に対して繊細に、優しく振る舞おうとすればするほど、その相手を強姦し性欲処理の道具にしようとしてしまう、という欲望。この短い「付録B」は、前作『動物化するポストモダン』ばかりか『ゲーム的リアリズムの誕生』全体の分析内容をも、内側から爆破しかねない起爆力を秘めていると言える。プレイヤー視点に立とうとするがゆえに生じる性暴力的なものの危うさを容赦なくえぐっているからだ。


 それならば、オタク的主体の内なる乖離=分裂に対して「批評的」であるとは、どういうことか。


 東は『AIR』は「批評的」なエロゲーだと述べる。

 《筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難を指すのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかくなにか特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造行為一般を指す形容詞だったはずだからである。》



 『ゲーム的リアリズムの誕生』の「付録B」に、オタク男性たちが自らの暴力性を超えて「倫理的」な主体性――それは「零落したマッチョイムズ」としての「道徳性」とは別様の何かであるはずだ――を獲得するための、具体的な方法や道が描かれているわけではない。しかし、オタク男性たちが置かれた状況と困難を「批評」することによって、その先の進むべき道をかすかに照らし出している。そのように思われる。


 必要なのはおそらく、政治のオタク化ではなく、オタク的欲望の政治化なのだ。