非モテ・メンズリブ・エロマンガについてのノート



 非モテについてちゃんと考えるためには「非モテとは何ぞや?」という問い方だけではとてもダメだとわかったので、少し前から、ウーマンリブ男性学メンズリブなどについてちょこっと調べていた。


 ご存知のように、非モテについてはすでに一定の研究(?)、というか、議論がある。
 小谷野敦『男であることの困難』『もてない男――恋愛論を超えて』『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』、本田透電波男』『萌える男』『喪男の哲学史』、滝本竜彦超人計画』、渋谷知美『日本の童貞』、酒井順子『負け犬の遠吠え』、斎藤環酒井順子『「性愛」格差論』、渡部伸(全国童貞連合会長)『中年童貞〜少子化時代の恋愛格差〜』、赤坂真理『モテたい理由』、森岡正博『感じない男』(これは非モテからは少しずれるが)など。
 森岡さんはブログでも非モテに関するエントリーを続けている。
 そして何よりも、ネット上で、有名無名の人をふくめ、膨大な議論が積み重ねられている(あまりちゃんと追えていないけど)。
 「革命的非モテ同盟」を名乗り、「団結し、徹底して恋愛を否定し、恋愛ブルジョワ恋愛資本主義独占資本に対して闘わねばならない」と呼びかける実践的(?)な運動もある。かれらは、非モテ女性/喪女/処女との連帯を、というメッセージさえ発している。
 それから、非モテ界を考える上では「だめ連」の存在は外せない。(『だめ連宣言!』には上野千鶴子田中美津との対談も掲載されていて、だめ連は彼女たちにもある時期、一定の評価を受けている。以前、「あかね」の究極Q太郎さんにインタビューしたけれど、その時の話を聞きながら、だめ連の源流は、たんなる「文化左翼崩れ」のイメージを超えて、野宿者や障害者の現実ともクロスしている、と知った。究極さんは、だめ連の精神は、実はべてるの家に似ている、と言っていた。べてるの活動も、恋愛や生殖と切り離せない。)


 これらは、1980年代〜のメンズリブ男性学/マスキュリズムなどとも、ゆるやかにつながっているように思われる(日本にも関西の伊藤公男氏をはじめメンズリブの一定の文脈があるのだけれども、それは70年代の田中美津たちのウーマンリブに比べると、まだまだ全然弱い)。いわゆるLGBT系というか、ゲイやトランスジェンダーなど性的マイノリティの側から男性性を批判/再構築する試みはたくさんあるし(この辺、特に不勉強)、最近では、特にオタク関係の人々の非モテ・萌え・ポルノ論の中に、メンズリブ的な感性(とその隠蔽)が流れ込んでいるのを感じる。


 まあ、要するに、男性のセクシュアリティについて、もう一度ちゃんと考えないと、非モテについてもよくわからん、という感じなのですが。*1




 そういうことをぼんやり考えている時に、永山薫さんの『エロマンガ・スタディーズ』を色々な意味で面白く読んだ。

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

 方法論にも考え方にも腑に落ちない点はあるのだけれど、そこでとりあげられている素材(エロマンガ)の、いくところまでいっている感じに驚いたのです。(自分、今さら、ナイーヴすぎるけど。)
 いくつか読んでみて、氏賀Y太ほりほねさいぞう町田ひらく等に凄みを感じた。


 そこにあるものは、もはや性的快感を求める(異性から見られずに見る/自分を無化し美少女の身体へ同化する)のですらなく、なんというか、精神分析的な死の欲動(その反転としての他者への攻撃性)に近いようにも見える。(ついでに言っておくと、「英米」の生命倫理脱構築する「日本」の生命倫理/生存学/生命学に対して、ぼくが感じる違和感は、死の欲動の水準を繰り込んでいないことにある。ぼくの知る限りは加藤秀一さんの名著『個からはじめる生命論』くらい。それじゃデリダ『死を与える』だって読み込めるはずもない。)

 自分が今後マンガ批評を書くなら、《性暴力》という視点は切り離せないだろう、と思っていた。それが異常か正常か、という価値判断の前に、欲望の「暴力的傾向」はある。そのことは認めたほうがいい。そしてこの種の欲望は、そういう欲望を抱く主体自身をも、不断に苦しめるのではないだろうか。たとえばイズミノウユキは、1990年代頃に「オタク達が熱心に美少女で手淫するようにな」り、そこにおいて「オタクの性生活の大革命があるタイミングにおいて巻き起こったことは間違いない」と書く(「萌えの入口論」)。そこでは、現実や二次元のあらゆる細部(髪型やらメガネやら猫耳やら絶対領域やら)が、萌え要素となり得、他者を性的対象と見なす「入り口」となり得てしまう。世界は性的な兆候=「入り口」だらけだ。これは欲望の主体にとっても、たぶん、楽なことではない。
 性暴力について、「(擬似)ポルノをふくめ構造的なレイプへの加担、絶対に許すな」でも「個人の性的嗜好の自由だ/表現の自由だ」でもなく、内側からきちんと考えてみたい、と前から思っていた。(大塚英志が、マンガの素材や題材というより、「マンガを書くこと」のコアにある種の暴力があるとどこかで言っていて、それは面白いと思った。)
 そして、価値判断をさしあたり留保するとしても、事実判断として、日本社会がロリコン化(森岡正博*2)=ペドフィリア化していることは、事実として言える。森川嘉一郎さんとかが書いているけど、アメリカ人とかが日本のビル広告や吊り革広告とかみると驚くらしい。犯罪だろうと。
 そもそも、戦後日本マンガの王=手塚治虫の絵柄の、無意識ゆえのエロさは散々言われるし、宮崎駿だってペドフィリー的欲望を剥き出しにしている(ナウシカはなぜパンツをはいていないのか、千尋はなぜソープランドで働くのか)。日本マンガ史の大きな転換点として、一九八〇年代の『シベール』『漫画ブリッコ』『ホットミルク』などのロリ系雑誌・同人誌がある、とはよく言われる。吾妻ひでおは、手塚的記号絵でエロマンガを書いた。「ロリコン漫画が手塚系漫画絵の復権運動だったと位置づけることもできる」(永山、70p)。そしてそれらの背後には、女性たちを中心とするやおい市場の存在もあった*3。まあ、それだけじゃないとしても、マンガアニメ的なものの巨大な無意識を形成している。永山本を読んでもう一度、そう思った。




 表現論を考える前に、自分としていくつか押さえておくべき手続きがある。まず、子どもと性のこと。
 以前、別の場所で少しメモったこと。
 ↓を参照に。


 ◆宇佐美昌伸[2001]「「子ども買春・子どもポルノ禁止法」をどう考えるか その背景・内容・課題」、→『現代文明学研究』第4号、http://www.kinokopress.com/civil/0407.htm


【A】個人的な性的嗜好
【B】実際に児童と性交を行なうこと
  1 恋愛・合意として(→児童の性的自己決定は成り立つのか?という議論あり)
  2 児童買春・人身売買という現実
  3 法的犯罪としての強制わいせつ/強姦
  4 家族内での性的虐待
【C】児童ポルノの問題
  1 子どもポルノ(実際の児童の実写・映像など)
  2 擬似子どもポルノ(マンガ・ゲーム・CGなど)
 ポルノを売る側を取り締まること
 ポルノを買う側を取り締まること→単純所持の問題


 まず、ロリコンペドフィリア自体は、個人の性的嗜好・欲望の問題であり、「犯罪」ではない【A】。ある人が言うように、《「同性に性的な欲望を抱くこと」も「子供に性的な欲望を抱くこと」も「犬に性的な欲望を抱くこと」も「ブリトニー・スピアーズをレイプすることを想像しながらオナニーすること」も、全て合法です》。
 ではロリコンペドファイルな欲望を持つ人が、犯罪を犯しやすいのかどうか。再犯率の高さをふくめ、この辺は諸議論があるので、ぼくには今のところよくわからない。ただ、それは自明の事柄ではない。たとえば、子どもへの性的犯罪の加害者の多くは、ペドフィリアではないという。つまり、「選好的犯罪者」ではなくて、「状況的犯罪者」が加害者の大部分を占めるという(wiki→「ペドフィリア」の項を参照)。もちろん「萌え=小児性愛ロリコン=オタク=犯罪者」というイメージについても、もろもろ解きほぐしていかないといけない。


 「子どもの権利条約」などでは、18歳未満の男女を一律に「子ども」と定義し、性的搾取・虐待からの保護を強く主張している。
 ただしその場合、「性的搾取・虐待からの子どもの保護」と「性交同意年齢」は問題として異なる、というのが国際的な共通理解であるようだ【B・1】。「18歳未満=子ども」だから絶対に性交してはいけない、とは限らないということ。
 この辺は、子どもの性的な自己決定がどこまで認められるのか、たとえば10歳の女の子が自己決定(同意)したから、それでOKなのか、という話に関わる。年齢で一律に線引きするのもどうなのか。(ぼくにはまだ、是非がよくわかりません。)
 日本の場合、刑法の176条「強制わいせつ罪」と177条「強姦罪」により、性的自己決定のできる年齢は13歳、と定められている(13歳未満の児童との性的行為は、暴行または脅迫がなくても、また相手の同意があっても、犯罪となる)。
 宇佐美さんは、子ども自身の性的自己決定を重視する立場のようです。


 ちなみに、未成年者・子どもとの恋愛・性的関係の自由を主張する団体としてはアメリカのナンブラやオランダのマーティン・アソシエーションは有名だけれども、最近知った「女性少女愛(female girllove)運動」、中でもドイツの「カナルラッテ」というアナキズムフェミニストのコミューン、そしてその「ドブネズミ宣言」が割とすごい*4
 →http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%84%9B%E9%81%8B%E5%8B%95
 「国際女性少女愛協会」というのもあって、「バタフライ・キッス」という会員サイトを運営しているらしい。


 ではポルノはどうか【C】。
 まず、現実の子どもを題材とする「子どもポルノ(実写)」と、マンガやコンピューターグラフィックスなどの「擬似子どもポルノ」が区別される。
 1999年施行の「子ども買春・子どもポルノ禁止法」では、擬似子どもポルノの処罰化は見送られている。しかしそれは国際的な規制対象の中心の一つであり、法的見直しの中心事項の一つともなっている。
 宇佐美さんは、犯罪者の処罰のみならず、犯罪の「防止」が最重要、と考えている。防止の対象については、かなりなところまで踏み込んでいる。子どもの商業的性的搾取に関する実際の加害者や利益を得る業者だけではなく、間接的加害者、無関心・無策なままに放置する人、さらには「機会があれば自身が子ども買春し、子どもポルノの消費者となる可能性があり、それを問題と感じない者も潜在的加害者であり、子どもの商業的性的搾取を許容する雰囲気の維持に加担している」と。
 宇佐美さんの立場からは、当然、子どもポルノの法的規制はもとより、「疑似子どもポルノの単純所持の処罰についても賛成する」となる。ポルノや擬似ポルノの存在自体が(小児犯罪の欲望を本来は持たない人々に対しても)「需要・供給の連鎖を反復・拡大」させ「さらに過激なものを求め続け」させるから、と。「内面的な嗜好又は空想と言っても、それが表現されれば、たとえ言葉だけであっても、既にして行為である」。間接被害やすべり坂的危険性も「防止」の対象となる。


 ……と、まだ全然未整理ですが、この辺から考えはじめて、マンガアニメの表現論や性暴力についての議論に至り、さらにその先で、男性のセクシュアリティとかメンズリブとか、もう一度その辺のことを考えられればと。


 ↓まだ読んでないけど。

2007-2008 マンガ論争勃発

2007-2008 マンガ論争勃発





 ところで、


http://dekubar.blogspot.com/2008/02/blog-post_08.html (かたわ少女)


 ↑確かにこれは色々な意味ですごい…。
 仲村みうなんかが出てる『ケガドル!』って写真集もあったが。綾波化なのか?

*1:話の流れと関係ないけど、「ラブハラスメント」という言葉を知った。→http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%D6%A5%CF%A5%E9%A5%B9%A5%E1%A5%F3%A5%C8。これは前から感じていた感覚だったので、なるほどなー、と思いました。

*2:◆「幼い心の商品化なぜ許す―ロリコン社会・犯罪の根源・相次ぐ少女殺害事件」、『朝日新聞』大阪版 2005年12月24日 夕刊・文化欄、http://www.lifestudies.org/jp/rori01.htm

*3:ある時期からエロマンガの書き手・読み手に男女が入り混じっていること(永山さんは「シーメール化」と言う)、またやおい腐女子の存在をみても、ポルノ表現に関する限り、単純に男性=加害側/女性=被害側とわけることもできない。

*4:wikiによると、原典はKAVEMANN, Barbara : Was heisst hier radikal? - Die Lesben und die Pädophilie, in:Blattgold, 3/1989 なのだが、ドイツ語読めないので、未確認。