有限責任事業組合フリーターズフリーの解散(続)



 私は7年前(2005年)の『フリーターにとって「自由」とは何か』で、資本主義の暴力を、弱い者がより弱いものを叩くという矛盾(加害と被害の無限螺旋)として考えようとした。
 今はこう思う。弱いものが弱いものを叩くその矛盾に苦しみ、失語することができること。孤独な痛みに自らの体と魂で向き合えること。それが私たちの「自由」の必要条件なのかもしれない、と。
 労働の過酷さが私たちの感覚を私的所有/独語/被害者意識へと閉ざしていくなら、その矛盾そのものを他者の方へと開き直すこと――そして被害者意識でくっ付くのではなく、その自由によって新しい関係を結び直すこと――「ひとりで生きる」ことと「共に生きる」(協働する)ことの意味を、そこから、再び考えたいと思っている。


 かつて「私たちは、もっと怒っていい」と書いた。しかし、肝心なのは、それがフリーターズフリーの結成・活動と同時進行だったということではないか。私たちは、ひとりでは「正しく怒る」ことすらできない生きものなのだろう。


 本気でぶつかり合える彼らと出会えたこと、活動を通して多くの人々に出会えたことが、何より私の宝物である。今は心からの感謝しかない。しかし、私も三〇代半ばを過ぎた。結婚し、子どもも産まれた。あの頃とはべつの生活の垢と疲弊がこびり付いている。鈍重に濁っている。労働や生活、そして「書くこと」への考え方も微妙に変わってきている。そのことはまた書くだろう。
 しかし何より、FFの活動がなぜ途中から失速したのか。議論を重ねた3号を刊行できなかったのか。私には何が足りなかったのか。私は何をできなかったのか。饒舌に反省を語る愚は避け、今後の実践と活動でその「先」を開くことによって、FFの記憶と未来の協働を同時に生かせれば、と思う。


 こんなことも思う。我々を凍えさせる厳冬とは、自分の弱さに負けることではない。仲間内で血みどろの論争や脱落者が続出することでもない。自分の人生の困難や悪循環とばかり戦いたがって、自分たちから遠くへ離れて行く他人や敵たちの胸の奥の火種を――そして彼らと再び関係を開き直していくという、熾き火のような可能性を――感じ取れなくなっていく感覚壊死の過程、それこそが我々の真の厳冬なのだろう。今はそんなことを思う。


 若い人たちや、自分の子ども、未だ産まれない未来の人々のことをよく考えるようになった。
 マンガの『ワンピース』の、私が一番好きなシーンがある。主人公のルフィは、白ひげ海賊団vs海軍の頂上戦争で、最愛の兄エースを失ってしまった。エースは、ルフィの目の前で、ルフィの命を敵から庇うために、殺されてしまった。目の前の愛する人をなぜ救えなかったのか。なぜ愛する人と二度と会えないのか。自分が最愛の人を殺したようなものではないのか。戦争終結後の弛緩し冷えた時間の中で、激しい罪悪感と無力感がルフィを苦しめる。ルフィは自暴自棄になり、自分の体を痛めつけ、慟哭する。
 そんなルフィを見かねたジンベイが、ルフィに問う。お前さんは今、全てを失った。絶望し、未来が何も見えなくなっている。しかし、今の自分に何があるか。何が残っているか。それをよく考えてみろ。
 失語のあとに、ルフィの答えはこうだった。
 ――仲間がいるよ。
 君たち、若い人々にも、いつか、そんな仲間ができたらいいのに。
 祈る資格のない自分を顧みながらも、そんなことを祈らずにはいられない。
 現実は厳しい。貧しい。つらい。あらゆる偶然と必然が君を押し潰していく。何故苦しいのか。何に負けたのか。それすらわからない。助けの手はなく、友たちも去っていく。しかし、たとえ誰からも愛されなくても、この世界は君を全力で祝福しているのだ。誰もが死ぬ時はひとりぼっちだ。誰もがずっとひとりで生きるんだ。しかし、その「ひとり」を心から腑に落とせた時、たとえ友人や恋人や家族に囲まれてすら「ひとり」なんだと静かに覚悟した時、私たちは、ようやく、目の前にいる仲間と再び出会い直せる。共に生きることを新しくはじめなおせる。「ひとりじゃない」と。こんなことをずっと思ってきた。苦しみと疲弊のどん底でこそ、喜ぼう。喜び合い、笑わせ合っていこう。笑うことすらできない誰かのことを考えよう。と。私たちはその先で、いつか、能力と必要と無能力によって互いを無限に生かし合っていく、新しい場所(協働)へとたどり着くことができるはずなのだ。いつかきっと。


 皆さんに感謝致します。
 ありがとうございました。