『カーニヴァル化する社会』

 少し前に『カーニヴァル化する社会』を読んだ。

 

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

 「非正規な不安定労働者」の生と「草の根的な監視社会化」の問題がどう有機的につながっているか、何かヒントがあれば、という思いがあった。
 『波状言論』の連載を読んでも、その点がピンとこなかった。
 大幅な加筆修正のなされた今回の新書を読んでも、ピンとこなかった。
 というか、何かに本気で関心があるわけでもないけど流行のトピックは総ざらいしたよ、それで何がわるいの、というスタンスを別に隠そうともしないスカスカ感が、ピンとこなかった。

 宮台真司がこの本を批判していて、鈴木さんがそれに反論している(http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=426#more)。この本は、現実を強いる「過剰流動性」を超えていく主体的な「決断」(素朴に信じられる価値なんてないと骨の髄からわかってて、でも「この価値観」を主体的に選ぶんだよ)がないからスカスカなのだ、と宮台さんが言い、鈴木さんがそれに、決断主義なんてマッチョな態度のほうがあぶない、「これしかない」という扇動はファシズムだ、自分は流動性の水位にとどまる、と言う。
 でもぼくはこう感じた――、まさに現実の「過剰流動性」(再帰性)を真剣に見つめる意志のないその「中途半端な決断」(過剰流動性にコミットしたようなふりをすること!)ゆえに、鈴木さんの本は真の意味でスカスカに空疎化してしまったのではないか、と。
 少なくとも宮台氏は、九〇年代前半に苦しげであれ「女子高生」の動物性の中に(超越性を断念しつつ生きる)まったり革命のポテンシャルを見、それが完全に「見込み違いだった」と自分の勘違いを率直に認めた挙句、過剰流動性を超えるには「近代主義」か「天皇制」しかない、と思いつめ、しかし日本の民度では前者の道は不可能だ、と思い至り、天皇制のポテンシャルを脱構築的にすりきれるまで発揮する道を「決断的に」選んだ。
 この道が正しいのかはわからないが、しかし必要なのは、現実の流動性=「無限の再帰性」と、その持続がやがて不可避に強いる決断主義(例えば、不安定雇用を延々と続ける日々が、極端に排外的な天皇主義に行き着く、というパターン)、この両者の循環(罠)をしりぞけることのはずだ。さもなければ、資本の転形期にともなう雇用と生存の無限陥没性に疲れ果てた人々が、日本型「家族」という最後の安全ネット(今はまだ高度成長期の「遺産」が貯蓄としてある)の空洞化をステップボードとし、何か過剰な《ロマン》へと嗜好的に没入し依存していく、という来るべき近未来の暴力に対抗する技法が見出せない。


 最近のメディア系社会学(?)を読むとやや気になるのは、データベース/カーニヴァル化/2ちゃんねるなどを分析するひとびとが、現実はもはや「右」でも「左」でもわりきれない、とくりかえし政治性を脱色しようとしている(ように見えてしまう)こと。
 たしかに、冷戦的な右翼/左翼の図で何かがわかったつもりになってしまえば、それは流動する現実のマトを射抜けないだろう。監視カメラやデータベースの問題をすべて国家批判の材料に収斂させ、返す刀でサブカルチャーや2ちゃんの存在自体を唾棄する人びとへの違和感も、そこにはあるだろう。でもだからといって、現実に生じているデータベース/カーニヴァル化/2ちゃんねるなどの出来事が、ナショナリズム超国家主義の問題から完全に切れている、それらは右とも左ともさしあたり無縁な中立的な現象だ、と述べればそれはどうもまずいのではないか。


 たとえば、それこそまったく抽象的な図式でいえば、ひろく時代のメンバーが共有する「理想」を失った「虚構の時代」(1972年〜1995年)において支配的な生き方のスタンスが、①虚構の世界に趣味的に没入すること(オタク)、②アイロニー/逃走論(ニューアカ)、③消費と広告による自己実現、だったとかりにしよう*1。重要なのは、虚構の時代においては(オイルショックのあとも)高度成長という経済的条件がなお残り続けた、ということだと思われる。つまり、それは「理想がなくても虚構を愛しうる(だけの経済条件がある)」時代を意味したと言える。
 90年代のバブル崩壊とデフレ不況を通して、虚構の時代を支えた経済的基盤がはぎとられる。ここではイロニー/虚構重視/消費型自己実現という人々のスタンスも、それぞれ変形を迫られる。それらの態度をなりたたせる経済的条件がフレキシブル化しているからだ。人々の生のスタンスはさらに刹那的なもの、過剰さを帯びたものとなる。ひとは自分の足元に暗く穴をひらく空虚、過剰流動性、偶然性に耐えられない。耐えられないから、それを超える何かを求める。たとえばこれも、80年代の三対にならって、①データベースへの没入(ネット依存/2ちゃんねる化/など)、②刹那のリアリティへの嗜好(カーニバル/動物的快楽への依存/恋愛やリスカなどのリアルの追求/など)、③ネオロマンティシズム(敵と味方をゾーニング的に分離する排外主義とセキュリティ化/など)、とでも分けてみる*2。これらは、日本社会のみもふたもない経済的没落と、労働環境が強いる過剰流動性=フレキシビリティから、もたらされている。①②だけをみて③をみなければ政治的批判性を見失うし、③ばかりを強調してもテクノロジーの洪水的進展がもたらす「過剰さ」の相を見損なう。項目の内容はより的確なものに修正していけばいいと思うが、これらが形作る構造的な三位一体を見なければダメなのではないか。
 そして、もちろん、こんな抽象的な図式を食い破る何かを見出さなければ、ぼくらの言葉は《現実》のハードなコアに触れたことにもならない。ロマン主義的=社会学的な「図式」の三角形の中を愉しげに空転し続けて終る。現実の過酷さをロジカルに分析するからこそそのまま未来の変革へとつながる、「あした」に向う発芽を秘めた《分析》足りえない。*3


 【おまけ】「ハイテンションな自己啓発って? フリーター・ニート問題の盲点」http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/005/

*1:例えば大澤真幸は(三田宗介を参照しつつ)日本の戦後史を「理想の時代」と「虚構の時代」で腑分けする(『虚構の時代の果て』)。社会のメンバーがある程度同じ目標=理想に向かって生きられた「理想の時代」(1960年代〜1972年)は、全共闘運動から連合赤軍事件の陰惨な「総括」へといたる「敗北」を経て、虚構の時代(1972年〜1995年)へと移行する。そこでは人々が理想ではなく「フィクション」を愛好し始める。理想とは「将来実現可能なもの」だが、虚構は「実現可能ではないもの」だ。虚構の時代が完成するのが、消費社会が全面的にはなひらき爛熟へといたる1980年代。例えば1983年は、「オタク」という命名がなされ、ディズニーランドがオープンし、ファミコンが発売され、小林秀雄が死に浅田彰の『構造と力』がベストセラーになった年だ。

*2:真善美でいえば、①は真のレベル(象徴界)に、②は美のレベル(想像界)に、③は善のレベル(現実界)に関わる。大澤真幸は、理想の時代→虚構の時代のあとに来る時代を「《現実》の時代」とよんでいる。するとまた三角図式で、戦後日本の歴史を、理想の時代は象徴界優位の時代、虚構の時代は想像界優位の時代、現実=動物の時代は現実界優位の時代、とでも区切れるか。何てつまらない分類・・。抽象的分類がそれを超える倫理へと分裂的に開かれるカントの哲学と、単に図式を自在に操るカント主義=ロマン主義は、別物だ、とこれも図式的に言っておこう。大澤さんの『現実の向う』の贈与と歓待の倫理には、前者の水位へ怒涛のごとくのぼりつめつつある。

*3:【後記】文章に加筆、一部変更しました。6月22日。