昨日、夏の家のB日程が終る。充実。すばらしい3日間。ストリートダンスをやってる若いボラさんが中心で、自発的に動いてくれ、その素晴らしさ。障害者を上から見るとか下から見るとか、対等とか、同じ人間とか、そういう話も馬鹿馬鹿しくなるほど、すうっと自然に関係を作っている。「支援者」的な侠雑物などまるでない。むしろこれが原点の光景なのだろう。なぜ、こういう光景が社会の中では当り前でないのか、当り前でなくあり続けているのか。そちらの方が不思議。いつも夏の家ではたくさんの事柄を、しかし素朴な原点にあるものを叩きこまれる。


 自分が三日間ついた人は、今までは集団外出の場でのみの知り合いだったが、三日間衣食住を共にし、全く別の面が見えて来た(よくあることだけど)。家族以外との一対一の関係が困難で、種々の「問題行動」(この言葉には「問題」があるけど)が。ただ、これは障害者の家庭でよくあるパターン。母子依存のまま中年化、とか言っちゃえばいかにも「支援者」っぽい無神経なくくりかただけど。家族からきちんと離れ、ボラとの外出やショートステイなどの経験を児童期に積み重ねることはやはり大事なんだなあ、とごく初歩的なことを痛感。青少年の家などを少し長めに借り、ショートステイへの助走というか、文字通り「自立支援」のための宿泊コースを組むか。等と話す。


 引き続き立岩真也『ALS』を読み返しながら、『弱くある自由へ』『自由の平等』なども引っ張り出してくる。『安楽死尊厳死』を読む。尊厳死と「優性(思想)的なもの」について、(そしてそれらがある種の自由主義リバタリアンの延長にあるのではないかということについて)当面調べるつもり。

安楽死と尊厳死  医療の中の生と死 (講談社現代新書)

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