不安・沈着・絶望

 格差や勝ち負けが拡大すると述べ「不安」を煽る人々が一方にいて、他方に、不安のアジテーション自体を批判し「現実は明るくも暗くもない」「希望も不安も共に虚妄」と述べる人々がいる。不安のインフレとその結果生じる野蛮で排他的な暴力の熱が圧倒的にひろがる限り、これを冷却し、冷淡な落ち着きを取り戻せと主張すること、これは正しい。だが、皮相な不安の連鎖の底には、各人が新現実から強いられた固有の《絶望》がやはりあり、不安の気分も余裕ぶった冷静さもこの水準を曖昧に糊塗してしまい、その意味で自分を包む現状を見極め、足元を掘り進めること、つまり「もっと深く絶望せよ」がまずは不可避で不可欠な精神の態度ではないか。そう思いもする。不安のアジテーション→処方箋の提示を繰り返し、売文と売名を図る「マッチポンプ(自作自演)」ではないもの。それはある。まずはそこから始める。