稲葉氏のコメント

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050914

# ROY 『告げ口のようで気が引けるのですが、新刊への辛辣な批判=批評を見つけたので紹介。
稲葉振一郎『「資本」論』は、恥知らずだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050911/1126706904
まあ、稲葉先生ならば黙殺するのでしょうけれども。』
# shinichiroinaba 『気が引けるなら「告げ口」しないように。いったいなにがしたいんですか、あなたは。
実はこういう批判が出ることは当然予想しておりました。立岩さんか市野川君から来るかとも思ってましたが、若い人から来ましたね。立岩さんとの対談の続きで、このあたりのことはどの道かなり突っ込んで論じられることになるはずです。とにかく、1冊の本で何でもかんでも論じるわけにはいきません。
それに本を書いているうちに立場も変わることもあります。たとえば『存在証明』から『教養』ではかなり重要な変化があります。その観点からすると今回の本の欠点は、『教養』よりも『存在証明』にひきつけて読んでしまえる、ということでしょうか。杉田さんの批判が出てくる理由も、ひょっとしたらそれと関係あるかも。
多分この人からすればぼくは「転向者」という位置づけになるのでしょうか。ぼくもかつては、たとえば労働力の所有を連帯の根拠とする師匠の「友愛主義」論に対して、似たような疑問や苛立ちを覚えていましたし、また実妹は重度の障害者ですし。「転向者」の翳りを感じていただけなかったのはよいことなのか悪いことなのか。
信じてもらえるかどうかはわからないけど、はっきり言うとこの人のいうことにはかなり共感をおぼえます。だけど割と大事なところで「それじゃだめだ」とも思います。それはちょうど小泉義之さんの議論に対する評価とも重なってきます。しかし「転向」したぼくとしては、そういう「共感」のしっぽを匂わせるようなものを書いてはいけないのでしょう。徹底して「それじゃだめだ」というところをついていくのが、ぼくのなすべき仕事なんでしょう。その辺の甘さがこの人の癇に障ったのでしょうかね。
コメントではyanaseさんのご意見も拝聴に値すると思います。』

 稲葉氏の上のコメントを読み、ある悲哀を感じた。
 稲葉氏は「実はこういう批判が出ることは当然予想しておりました」と書く。「実は」「当然」「予想しておりました」。出だしから、これらの言葉にまず躓く。ここには他者の言葉を全て「想定の範囲内」に回収し内面化しようとする精神がある。例えばこの「実は」は、「君達には私の議論は○○とみえるかもしれないが、実はそんなものは全て踏まえたうえであえてこう書いたんだよ」という余裕の雰囲気をレトリカルにかもし出す。「当然」にも同じ効果がある。
 この余裕、あるいは余裕の偽装、はなんだろう。杉田の言葉が十全な強度を持ちえたか、はわからない。でも稲葉氏は杉田以外の他者の言葉、真に自分の急所を貫く切実な言葉に対しても同じ反応を示すのでは、という素朴な疑問はやはり湧く。どうなんだろうか。
 「それに本を書いているうちに立場も変わることもあります」という非常にあいまいな文章もそうだ。ここでは、文章ごとに自分の「立場」が変りうることがあっけらかんと述べられるが、同時に、それを書く自分の実人生自体の不動性が疑われていないように読める。二重に使用される「も」「も」がその印象を深める。稲葉氏は「1冊の本で何でもかんでも論じるわけにはいきません」と書くが、これは「議論の本位を定める」(福沢諭吉)ための不可欠な「自己限定」なのか、限定する自己を持たず状況に応じて自在に立場を変幻する無規定な自我のあらわれなのか。
 自分は「あえて」「わかっていて」○○するのだ、というイロニー(メタ)は全く言い訳や自己免罪にならない、とぼくは素朴に思う。メタ(超越)は状況に応じてすぐにベタ(内在)に転じる。両者が相互に入れ替わりうる回路の中にある限り、前者は後者への優位を意味しない。稲葉氏は「「転向者」の翳りを感じていただけなかったのはよいことなのか悪いことなのか」と書くが、杉田は既に最初のエントリーで「本人がいかにも80年代チックな「あえて」「虚構として」を気取ろうが」それは無意味だ、と明確に書いている。
 稲葉氏は「多分この人からすればぼくは「転向者」という位置づけになるのでしょうか」と言うが、そもそもぼくはそう思っていない。どうしてもそうは思えない。人が一つの立場を絶対的に信奉し没入し、現実の強固さと巨大さ前に決定的に敗北し、心を折られ、別の立場へ救いがたく転じていく。転向という経験をそういう意味で捉えるなら、むしろ問題は、一度も転向などしえない融通無碍の精神性、適当に傷つき適当に挫折は味わうけど真に何かから魂を傷つけられ失語することのない不死身の人格、のありようではないか。そのことを述べてきた。例えば宮台真司氏の「援交から天皇へ」というプチ「転向」には、ぼくはそんな痛みをかすかに感じる。それにダイレクトに共感はしないけど。
 ぼくはそれを「八〇年代的」と封じ込めるつもりはない。何故ならそんなジャパンな心性は今のぼくらにも確実にウィルス的に転移しているから。【24日、記】