大分前にみた黒沢清『LOFT』は微妙だった



 設定がそっくりな、当たり障りのない青山真治レイクサイドマーダーケース』(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050802/p1)よりは、ずっと不気味な映画ではあるのだけれど…。


 例によって、ジャンルの転調=複焦点化が生じ、収まりのつきにくい映画にはなっている。怪奇映画/Jホラー/ストーカーもの/恋愛映画。そのどれでもあり、どれでもない。しかし、最近思うのだけれど、この転調=複焦点化自体は、それほど大したことはないんじゃないか。つまり、黒沢の単なる生理であり、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。意図的な手法ではない(『ドッペルゲンガー』には遊び感覚が確かにあったが)。あるジャンルを徹底する中から自然と器が破れて変貌したわけでもない。ただの、自然。もちろんそれ自体は稀有の才能なわけだが、生理は生理でしかない。


 確かに、安達祐美の不気味な死ななさとか(西島に首をしめられ、豊川に首をしめられ、土に埋められたけどまだ生きていて、最後に湖に沈められる)、ミイラが突然動き出す場面の唐突さとか、それに対し豊川が「動けるんだったら最初から動けよ!」と切り返すシーンのユーモアとか、最後の方で豊川と中谷が唐突に派手な恋愛映画の立ち回りを演じてしまうところの爆笑感とか(ヨーロッパの劇場では会場は大笑いだったそうだ)、他者が部屋の中に唐突に侵入していることの不気味さとか(空間感覚の歪み)、森のシーンの笑ってしまうほど強すぎる風の凄さとか(ゴダールの『フォーエヴァー・モーツアルト』の海岸シーンよりすごい、ちなみに『エリエリレマサバクタニ』の冒頭の海岸シーンもゴダールを意識したんだろうけど、こちらは月並み)……、面白い細部はいくらでもある。でも、それもふくめ、それらを継ぎ合わせていったとしても、観たあとになにやら消化不良な感じが残る。というか、消化しやすすぎる、というか。


 今回ちょっと思ったのは、最後の方、ミイラを燃やして「最初からこうしておけばよかった」と口にするシーンがあり、死んだ安達の小説についても「最初から燃やしておけばよかった」と中谷が呟く。こういう「元も子もない」感覚が、ダメなんではないか。豊川が湖に落ちて終わるエンディングも、ミイラに対する「歩けるなら最初から歩けよ!」というセリフもそうだった。それをいったら元も子もない。前作『ドッペルゲンガー』の、機械を最後に海に落として終わりになるシーンでも、同質の「だいなし物語」(富永)の印象をぬぐいがたく受けた。黒沢の資質にもともとそれはあり、それはギャグっぽくも、ポストモダンな空虚っぽくもあった(『ニンゲン合格』では、奇跡的にそれが傑作へと昇華されていたが)。なんで毎回こういうところに落とし込んでしまうのだろうか。自分にはそこらへんがよくわからない。
 『カリスマ』『回路』の後半部、あるいは『アカルイミライ』の全編を満たすざらついて暴力的な感じ、そしてその先にひらかれかけた不透明な未来へとわけもわからないまま踏み込んでいく感じは、正直自分にははっきりと意味や意図を掴むことはできなかったけれど、それでもこういう「元も子もない=だいなし」とは違った手ごたえをふくんでいたように思う。(素朴な話、前にも書いたけど、黒沢清の映画は、確かにすごいんだけど、やっぱり魂のスケールの「小ささ」を感じてしまう。最近のゴダールや『エレニの旅』や『ヴァンダの部屋』や『動くな、死ね、よみがえれ!』なんかに比べると。何かシネフィルっぽい人々がその辺を全部スッ飛ばしてひたすら仲間誉めを続ける光景は、いくぶん不気味だ。)