悩みに悩み続けている人たちの前で



 山口県光市の母子殺害事件の広島高裁の差し戻し控訴審判決に関わるニュースを見ていた。この間、森達也さんの『死刑』を2回、ゆっくり読んでいた。死刑制度の是非については、ぼくにはあいかわらず何とも言えない。ろくに知らないことについて何かを言えば、何を言っても、必ず間違える。だから多くの事柄でぼくは沈黙を選んできたし、これからもそうする(それでも十分、無知なる饒舌を繰り返してきたし、これからも繰り返すだろう)。ぼくの日常の中で、死刑に直接関わる人はいない。誰も。影すら見えない。ただ、この事件について、また死刑制度の現状について、現時点での考えを、いくつか書きとめておきたい、とすごく思った。ので、書く。


死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う



 まず、「私達」は、「事件」の被害者でも加害者でもない。その距離=断絶については、深く深く思い知ったほうがいいだろう。これはどんなに強調しても、強調しすぎることはない。が、私達は、現行の日本国家の死刑制度を支持し、それを成り立たせている当事者ではある。つまり、「事件の第三者」+「死刑制度の当事者」の立場にある。そのことをまず確認したい。
 「死刑廃止を主張する人は、犯人を殺したいという被害者遺族の気持ちが分かるか」。そう言う人がいる。そんなもの、わかるはずはない。被害者や遺族の気持ちを「分かる」と言う人は、嘘を言っている。逆に言えば、犯人の気持ちも私達にはわからない。「社会的環境のせいで加害者は罪を犯したんだ」、と第三者が簡単に断言することも、やはり簡単にはできないはずだ。これらのことは最低限、弁えておきたい。
 そもそも「被害者遺族の気持ちを考えろ」という人々が、必ずしも遺族の感情や人生について本当に思いを寄せているわけではない。事実、第三者による被害者遺族への白眼視やバッシングはずっとある(たとえば若山春奈ちゃんの家族はメディアから散々叩かれ、全国から「次はお前の番だ」「殺されて当然だ」という手紙が殺到した)。また、遺族が必ずしも犯人の極刑を望むとは限らない――少数派であれ――のだけれど、それが顧みられることはたぶん少ない(たとえば『弟を殺した彼と、僕。』の原田正治は、弟を殺害した主犯格の「長谷川君」との関係を重ねることで、むしろ死刑廃止を望んだ)。*1
 もちろん、一貫して憎んで憎んで憎み続ける人が一般的ではあるだろう。しかし、被害者遺族の中にも、色々な被害者家族のスタンスがある。自分の家族を殺した犯人は許せないが死刑制度には反対の人、犯人を殺すためではなく死ぬまで反省させるために終身刑を望む人、死刑制度では生ぬるく自分の手で殺さなければ気が済まない人。そしてそれらの気持ちも揺らいだり変化したりしていく。当然のことだ。簡単にわかることはできない。が、私達は、たんに「わからない」に居直るのもおかしい。「国民」としての当事者でもあるから。わからなさの中で、考え続けることだ。いや、ただたんに「考えよう」、では足りないかもしれない。そもそも、日本の場合、死刑制度にまつわる多くの基本的事実が、不思議なほど情報秘匿され続けてきたのだから*2。「考える」と同時に、まず、基本的事実を「知る」必要がある。ずいぶんたくさんのことを。


 なぜ日本人はこんなに死刑を熱烈に望むんだろう。風向きは変わりつつあるのかもしれないが、根っこのところでは不思議に動かない何かがある。
 内閣府世論調査では、二〇〇四年に「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた人が八一・四%、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた人は六%。法務省は、これらのデータをもとに、国民の大半は死刑存置を支持している、という見解を示している。
 他方で世界的には、死刑制度は、着実に廃止もしくは執行凍結(モラトリアム)の方向に向かっている。国連は死刑廃止条約を採択している。EUは、死刑制度は欧州人権条約第3条に違反するとしている。EU諸国では現在、ベラルーシ以外に死刑を行っている国はない。アムネスティ・インターナショナルの調査によれば、世界の死刑廃止国の総数は一三三ヶ国(死刑を完全廃止した国・戦争犯罪など例外的な犯罪以外は死刑を廃止している国・廃止はしていないが過去一〇年以上執行停止の国、をふくむ)。実施国は六四ヶ国。アメリカを除くと、殆どがアジアと中東、アフリカの一部の地域に集中。韓国も死刑執行を停止し、台湾も停止の方向に向かっている。西側先進国でほぼ唯一の死刑存置アメリカでは、現在、五〇州のうち三八州に死刑制度がある*3。しかしアメリカでも、近年は、死刑執行の件数は減っている。執行停止された州もある。二〇〇六年の全米での処刑数は、二〇〇五年と比較すると一二%減少、一九九九年と比較すると四六%減少。*4
 けれども日本では、近年、死刑判決が急増している。二〇〇六年の一年で、地裁・高裁・最高裁が下した死刑判決の数は四四件。これは統計データのある一九八〇年以降では、最多の記録だ。一九九一年からの五年間と二〇〇一年からの五年間を比べると、地裁での死刑判決は三倍に増加したという。
 もちろん、国際的な流れに従わねばならないわけではない。かといって、死刑制度について正面から考え議論した上で、現在の方向が選ばれているわけでもない。死刑制度は、この国では、何か空気のように当たり前に見なされている。


 大まかにいうと、死刑制度が必要だという根拠には「予防」説と「応報刑」説の二つがある。前者の予防説には、「一般予防」(死刑の存在は犯罪者を威嚇し、犯行を思いとどまらせる効果がある)と「特別予防」(矯正不可能な犯罪者を社会に戻せば再び犯罪を犯すので、排除すべき)がある。
 しかし統計データによると、廃止後に犯罪がはっきりと増加・凶悪化したケースは今のところないそうだ。もちろん様々な統計データがあり、その解釈もある。専門家ではないから、正直是非のほどはよくわからない。しかし、死刑制度に、一般的な犯罪抑止・予防効果は見られない、というのがさしあたりの定説のようだ(逆に「死刑制度よりも終身刑無期懲役の方が抑止になる」という明瞭なデータもないという)。よく言われるけれども、アメリカでは死刑を存続する州の方が犯罪率が高く、死刑を廃止した州の方が犯罪率が低い。
 社会防衛上は、死刑制度を存置する積極的な根拠は、あまりない。
 最後には、被害者・遺族感情がある。
 遺族の気持ちを考えると、極刑を以って臨むしかない。死刑は国家による遺族に代わっての仇討ち、と考える人も多い。また、死刑があってこそ、はじめて加害者は本当に罪を反省できる、という論もある。そしてそれを世論(国民感情)が後押ししている。国民感情を考えれば、日本での死刑廃止は世論が赦さない、そんなことをしてしまえば国が混乱する、と述べる学者もいる。


 死刑制度を考える上でポイントなのは論理ではない。森さんはそう言っている。ポイントは情なのだ、と。被害者遺族の圧倒的な、犯人を殺してやりたい、という情。ぼくの印象では、存置派も廃止派も、たぶん、論理的には死刑制度がオカシいと、それなりに知っている。しかし、遺族の「情」の問題は残る。矛盾しようが何だろうが、赦せないものは絶対に赦せない。ぼくは小林よしのりが『脱正義論』で「情で動いた」と言っていたことを思い出す。あるいは高橋哲哉の『靖国問題』1章が、戦死者遺族の激しい情念へのおののきと失語から始まっていたことも思い出す。いや、論理vs情、と単純に分けたいのではない。日常的な情や論理を飲み込むような《情》があるのだ。
 先に述べたように、被害者遺族に共振する国民の多くは、別に被害者遺族の感情や人生を本気で考えているわけではない。だから、あっさり遺族バッシングに反転する。被害者遺族の複雑な感情を見るつもりはあまりない(普段無関心であることにかけては、ぼくだってまったく同じだけれど)。つまり、「情」にも色々な位相がある――「個人の情」と「世間の共同感情」、これらはきちんと線引きしておかなければならない。国民はお祭り的に被害者に(加害者にも)共振するべきではない。事実や論理を見えなくしているのは、はっきりいって、情緒を煽り立てるメディアによるところが大きい。結局、視聴者がそれを望んでもいる*5。でも、たぶん、それだけじゃない。これらの共同感情や煽りを取り除いても、なお「情」という問題は残る。「決して癒されない悲しみと怒り」は残る。
 よく人は、死刑廃止論者に反論して「じゃあ、自分の家族が殺されたらどう思うんだ?」という疑問を投げかける。素朴なようだけど、ぼくはこの問いが、やはり問題の心臓部だと思っている。何度も言うけど、第三者は、被害者に妄想的に一体化しないほうがいい。バッシングに声を重ねることで、日頃の自分の不満や鬱憤を晴らしているなら、あるいはたんにお祭り騒ぎに乗ってはしゃいでいるだけなら、そんなのは最低だ。でも、やはり想像はする。ある日、自分の恋人や家族が誰かに無意味に残酷に殺されたなら。ぞっとする。恐怖。悲しみ。絶望。そして激しい怒りが、黒々とした殺意が湧きあがってくる。そんな奴は赦せない、と思う。
 本音を言うと、ぼくには、殺人・戦争・死刑に絶対反対する、という強い確信はいまだない
 もちろん、ぼくは誰にも殺されたくない。家族や友人が殺されるのもいやだ。絶対に。でもそのことが、自分の中では、「絶対に人を殺してはならない」という倫理的確信に結びつかないままだ。なぜだろう。すごく直観的に言うと、死刑制度(国による代理殺人)には色々考えあぐねるところが多いものの*6、たとえば恋人や家族を殺された人が、殺した人を殺し返すことは赦されるのでは、と生理的に思ってしまっている。要するに応報思想、直接の仇討ちはいいんじゃないか。そう思ってしまっている。被害者遺族が加害者を殺す、それは赦される、というか、どうにもならない本能や自然としてある、と。では、被害者遺族に殺された加害者のそのまた家族が、その被害者遺族をさらに憎んだとすれば。殺した者を殺した者を殺すことは赦されるのか。憎悪の連鎖――そういうふうに言ってしまうのはたやすい。ただ、事件の直接の被害者でも加害者でもない「第三者」の立場から、このポイントをしっかりと考える回路がないと、死刑制度のこともちゃんと見つめられないのではないか、と素朴にぼくは思う。


 では、その先にあるものはなんだろうか。
 まだわからない。


 ぼくは本村洋さんの言葉を聞いていて、深い感銘を受けた。
 テレビでほんのわずか見た印象からも、本村さんも揺らいでいることは痛いほど伝わってきた。もちろん、本村さんの「本当の気持ち」はわからない。でも、その揺らぎは第三者の目にもかすかに見える。伝わる。さざ波のように。犯人を死刑にしたい。絶対に絶対に赦せない。その気持ちは当然だと思う。しかし、本村さんは同時にこんなふうに言っていた。「結局この事件で3人(妻と子と加害者)が死ぬことになります。そのことの重大さを社会全体として受け止めてほしい」。
 森達也さんの『死刑』の最終章に収められた本村さんの手紙には、「正直に言えば、死刑については、私は悩みに悩みを重ねています」とある。
 そしてこうある。

 《犯罪は、加害者も被害者も不幸にします。社会全体を不幸にします。世の中から犯罪や戦争がなくなって欲しいという気持ちは皆同じであり、その山頂へ向かうルートが違うだけのような気がしています。どのルートが最短なのかは皆目分りませんが、いつかその山頂に辿り着けることを願うばかりです。》(132p)



 現実の矛盾に直面して、戸惑うこと。失語すること。「悩みに悩みを重ねて」、人は変わる。ほんのかすかな変化であれ。当たり前のことではある。でも同時に、驚くべきことでもある。かすかな変化の微光こそが本当に凄いものに違いない。「死刑存置派も、いつかは死刑廃止派に変わる」と言っているのではない。例えば『少年に奪われた人生』『少年犯罪被害者遺族』『殺された側の論理』等の著作がある藤井誠二さんは、この7〜8年で100家族以上の被害者遺族の取材を続ける中で、死刑廃止派から存置派へとスタンスを変えていった。そういう変わり方もある*7。もちろん、死刑制度の是非は変わらないままでも、その意味が人の中で深く深く濃密になる、そういう変わり方もある*8。「中立」はありえない、そのように言う人もいる。考えるべきことを考えるのを避け、決断を先送りにし、他人から批判されないで済む安全地帯に身を置いているだけだ、と。そうかもしれない。でも、ぼくは、悩み失語し逡巡しながら、その人なりの考え方をじっくり熟成させていくのがいい、と今は思う。制度のために人があるのではない。人のために制度がある。ならば、制度を運営し選択する人々が死刑制度の是非を本当に問いうるくらい、自分達を鍛えていくのがいい。だって、当事者である本村さんや多くの遺族の人だって「悩みに悩みを重ねている」のだから。
 まずは「第三者」らしく、冷静になる。頭を冷やす。その上で、死刑制度について、事件についての基本情報が手元に足りないことを、よく噛み締める。そこから、考えてみる。何かを決定してみる。私達には本当の意味で「悩みに悩みを重ねる」ことは出来ないかもしれないけど、「悩みを重ねる」ことくらいはしてみてもいい。この文章には、やっぱり、何の結論もない。ただ、ぼくはそういうふうに考えていこうと思っている。*9



*1:本当に遺族感情が優先されるなら、遺族がたとえば「加害者の死刑執行ではなく無期懲役を望む」と主張したとしたら、その遺族感情を大事にしてもよさそうだけれども(現行の刑事司法システムでは不可能)、そういう議論がなされるわけでもない。

*2:被害者遺族や死刑囚の親族、メディアの人間が死刑執行の現場に立ち会うことはありえない。法務省はそもそも死刑の執行予定日を公表しない。執行後、法務省記者クラブに執行の事実と人数のみファックスで伝えられる。が、氏名・罪状・執行場所などは隠されている。死刑囚の家族には、処刑後に結果が伝えられる。被害者遺族へは公式に伝えられることすらない。異例の措置を除くと、一般市民に、刑場が公開されることもない。確定死刑囚には家族と弁護士以外には面会は原則的に(最近、少し変化あり)できない。外部との手紙のやり取りも原則禁じられる。もし家族がいなければ、誰にも会えない。そして処刑が知らされるのは、当日の朝だ。知らされたら、その数時間後には死刑が執行される。ほとんどカフカの世界である。

*3:死刑制度にまつわる一切を徹底的に情報秘匿する日本と違い、アメリカでは、かなり徹底した情報公開を行っている。

*4:ただし、数は圧倒的に違う。たとえば2006年に死刑執行者数は、アムネスティ・インターナショナルによると、中国1010人、イラン177人、パキスタン82人、イラク65人、スーダン65人、アメリカ合衆国53人(ただしこれらは「最低でも」、の数である)。日本は4人である。

*5:ただ、単純に「国民の意志」が一枚岩であるわけではない。そこには被害当事者団体による政治的な交渉や地道な積み重ねの力があった。→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080421/1208792839参照。

*6:誤判・冤罪の危険性について。アメリカでは、一九七三年から二〇〇四年末までに、死刑確定後に無実が証明されて釈放された者の数は、二五州で百十七人に達することが判明したという。イリノイ州ではあまりに誤審が多いため、二〇〇〇年に死刑執行を一時停止(モラトリアム)した。また日本の刑事司法システムの問題性は数多く指摘されてきた。自白調書が優先され、物証が尊重されない。裁判官は検察依存の傾向が強い。亀井静香は、死刑制度反対の理由について、「警察官僚出身だから、冤罪がいかに多いか私は知っています」と断定している。だからこそ、死刑制度に反対するのだ、と。

*7:『A』の時も少し思ったけれど、森さんの『死刑』にやや足りないのは、被害者遺族の人々に会い続ける中で自分を「変えられていく」経験なのかもしれない。

*8:ぼくは森達也さんのことを『A』以降、ずっと気にしながら現在に至るのだけれど、『死刑』では、森さんはまた別の一歩を踏み出したように思った。森さんはよく、論理ではなく(だけではなく)情が大事だ、と言っていた。その態度自体は変わっていない。ただ、情だけでは、難しいところもある。森さんはそこにぶつかっている。文京区音羽幼稚園事件の被害者春奈ちゃんの祖父・松村恒夫さんへのインタビューで、森さんは、決して解消されない被害者遺族の圧倒的な怒りに直面する。それは論理的破綻を吹き飛ばすほどの激烈さだ。情からは、死刑制度を否定し加害者を生かす、という道は出てこない。たとえば小林よしのりは、戦死者や国民への情を言うが、他国の人々へは冷淡な態度を取る。しかしこれも同じ情なのだ。じかに会えば情が湧く。森さんはそう言う。しかしそれは逆にいえば、会えない人には情が湧かない、ということだ。そして全ての人と会うことは不可能である。ならば、情には不可避に誰かを排除する部分がある。他者を殺したい、抹殺したい、という情だってあるのだ。では情の先にあるもの、すべての人に生きてほしいと思う感覚とは、何だろう。このとき、森さんは、「本能」「摂理」と言っている。全ての人に生きていてほしいと思う。それは「論理」でも「情緒」でもなく「本能」「摂理」なのだ、と。この辺りについては、たぶんいずれ、また別のエントリーで書くと思う。

*9:基本的な間違い等ご指摘下さい。