黙って他人のうんこの臭いを嗅ぐのも重労働



 介助者は時に自分の身体をあんまり大事にしない傾向があるように思う。腰痛とか感染症予防のことではなく。もう少し手前にあること、基本的なこと。たとえばガイドヘルプ中に頭を殴られ爪を立てられても「相手から殴られても当たり前、自分の介助技術が足りないから仕方ない」と、まず反省してしまうとか。もちろん、身体的暴力をすべて「それは暴力だ」と否定していたらきりがないし、介助者の配慮不足もたくさんあるので、境界線はあるのだけれど。
 最首悟は、ケアはいやなもの、汚いものだと言っている。立岩真也も、介護には「負担であり逃れたい側面のあること」「世話すること、介助することは、肯定されるべきもの、肯定的なものである一方で、それは負担であり、否定的なもの、いやなことである」と言っている。堀田義太郎さんも「せずに済めばよい」ものと言っている。
 最首さんはさらにすごいことをさらっと言っていて、ケア労働は歴史的に卑賤とされてきた労働に繋がる面もあるのではないか、と。「死と血をタブー化し、それにまつわる臭さと汚さを忌避し、それを身体的に表す病気や障害者を遠ざけ、屠畜を職業とする者、あるいは漁・猟師を囲い込む」。
 卑賤視自体は歴史的につくられてきたものかもしれないけど、その手前にあるもの、臭く汚いとされてきたもの、ダーティワークという面は残る。どんなに他人の糞尿の始末になれてきても、これはかんたんには消えないし、消さなくてもいいし、いっそ消さないでいたほうがよさそうに思う。
 青い芝の有名な言葉に「寝たっきりの重症者がオムツを変えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです」というのがあるけど、介助者にとっては時に「黙って他人のうんこの臭いを嗅ぐのも重労働」かもしれないのだ。そういうことを、すこし、思い出してみるのもいい。