雑想(村上隆五百羅漢図展と塚本晋也『野火』)

 六本木ヒルズ森美術館村上隆の五百羅漢図展。
 確かに、世界中の絵画や芸術の歴史すべてをぺらぺらな日本的現在の中にサンプリングし、叩き込んでいくという凄まじいエネルギーは疑うべくもなかったけど、個人的には、観る人間の美意識を攪乱し、たんなる美しさの閾を超えるような、息をのむほどの過剰さを感じるところまではいかなかった。
 キャラクター文化とハイブリッドな宗教性が直結・直流することによって、かえって村上さんらしい歪んだセクシュアリティのスパークが生じず、最大公約数としての「クールなジャパンのアート」にほどよくおさまってしまったような食い足りなさがあった。「大震災から宗教的な領域へ」という物語に引きずられすぎたのだろうか。
 ジャンルや美術史の伝統ばかりか、生者や死者の尊厳をすら蹂躙するような猥雑さが村上さんの魅力ではなかっただろうか。たとえ生々しい傷口や人間的感情などを方法的にフラット化(無意味化)させていくとしても、無数の死体たちのゾンビ的な、ケミカルで嘘っぽいゆえに妙に生々しい、吐き気がするほどの腐臭をそこから感じたかった。そして何よりゾンビ的腐臭の先にある祈りを。
 村上隆展のあと、塚本晋也『野火』をポレポレ東中野で。正直2000年代以降の塚本作品は僕にはよくわからなかったけれど(『東京フィスト』と『バレット・バレエ』が好きだった)、今回の『野火』はすごくよかった。
 近年の塚本作品では、ジャングルや南国の海のイメージが、日常(死にきれずに生きながらえるしかない場所)を超えるロマン的な天国としてイメージされていたのだけれど、実際に『野火』でジャングルの中へと飛び込んでみたら、阿鼻叫喚の地獄そのものであり、いやむしろ、塚本的な「天国と地獄」そのものだったと。『鉄男』の頃のように、インディーズであることの制約がかえって『野火』の長所と強みになっている。
 それにしても、ジャンルは違うけど、塚本さんの映画『野火』と言い、高橋弘希の小説『指の骨』と言い、小林よしのりのマンガ『卑怯者の島』と言い、「戦後的な価値観(距離)をいったんカッコに入れて、凄惨な戦場の現場に生々しく飛び込む」というフィクションが一斉に出てきて、かつ、それらが(純文学や純粋芸術ではなく)そのまま風俗的エンターテイメントになりうる、それを観る人々の肉体や情動にダイレクトに食い込む、というのは、どういうことなのだろうか。
 『野火』は、超クローズと手ぶれカメラ(いや「手ぶれ」どころか、大地そのものがぐらぐらに揺れまくり、まるでDIY的な『ゼロ・グラビティ』さながらに、カメラが上下左右へと乱高下しまくる)による凄惨な死者累々の映像がひたすら続くのだけれど、それがそのまま、塚本流の極上のエンターテイメントでもあり、僕は映画館の中で何度か笑ってしまったのだった。それは不思議なことだった。
 村上隆五百羅漢図展と塚本晋也『野火』は、色々なモチーフが符合していたけれど、『野火』の世界観の方が、僕は時代の最深部に食い込み、また先を行っているように思えた。六本木ヒルズの上層とポレポレ東中野の地下、場所の違いすら、何かを象徴するかのような……。