『シン・ゴジラ』、その後のこと数点

 以前facebookに書いた文章を転載しておきます(加筆修正あり)。

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 先日炎上した『シン・ゴジラ』批判についてはいつかまとまった評論を(おそらく庵野秀明論として)書こうと思います。それを応答というか、責任の取り方にできれば、と考えています。

 しかしその前に、いちばん反省している「あらかじめ男性化された女性たち」云々という発言について。

 僕には例えばカヨコはアスカを、ヒロミはレイを殆どそのまま実写に転化したものにみえました。防衛大臣の描き方もカリカチュアというか、アリバイ作りにみえました。そういう言い方をするならば、『シン・ゴジラ』では、薄っぺらでステロタイプな人間像しか「あえて」出していない、とも言えます。

 もともと『エヴァ』のアスカやレイやミサトは、ある種のオタク男性たちにとって都合のいい女性イメージを強く投影したものだ、と僕は考えています。そして『エヴァ』にはそういう女性像を欲望せずにいられないゲンドウやシンジへのぎりぎりの批評意識があった、と。

 しかし311後の現実と虚構、文化と政治を攪乱させるという意図を持っているはずの『シン・ゴジラ』がそれでいいのか。そういう違和感を持ちました。「あらかじめ男性化」という表現にはそういう「男性オタク的なホモソーシャリティ」への僕なりの違和感を込めたつもりです。

 しかし僕のツイートは「男性がやるべき職業を女性がやっていることへの批判」のように読めてしまいます。防衛大臣や政治家や科学的な職業に女性が就くべきではない、というような。そこには僕の無思慮があり、たんに「誤解をまねく表現だった」「意図としてはそういうつもりではなかった」ではすまない、僕の中の歪みがあると思います。

 その点をまずは率直に反省したいです。

 念のために言えば、僕もまた男性オタクのメンタリティをもっており、自分の中の欲望に葛藤し、格闘し続ける庵野氏らの作品を、他人事ではなく観続けてきました。その点で、『シン・ゴジラ』の「大人の組織」の描き方には強い違和感を持ちました。何かをスキップして、都合のいい理想的な大人を描きすぎていると。「ダメな日本」を否定し、「すぐれた日本人」を夢見る。「ぐだぐだな悪いガバナンスの日本」を否定し「優れた専門性と責任を取る集団」を夢見る。そこが一足飛びなのが気になりました。これはある種の歴史修正主義であり、自己啓発のようだと思った。

 たとえば『オネアミスの翼』は、やりたいことがない無用物のダメ男のシロツグが(しかも彼は鬱屈の中で女性を性的に暴行しようとさえします)政治的状況に翻弄される中で葛藤し、少しずつ変わっていく、そして彼の変化が組織全体に変化を及ぼしていくという話であり、また『エヴァ』では冷酷な大人たちの思惑と、それに翻弄される子どもたちの視点を交錯させ、重層化することによって、物語を立体化させるという試みが少なくともなされていました。

 僕の考えでは、『エヴァ』の主人公はおそらくゲンドウであり(妻=母を甦らせたい、という「チルドレン」な欲望のために、人類補完計画や組織や子供たちや愛人を利用している)、それにもかかわらず、大人たちが作中で十分な責任を取らず、子どもたちが解決不能な代理戦争を戦わされていた。だから物語が完結しないのではないか。シンジ君たちよりも誰よりも、ゲンドウこそが永遠に成熟できない「チルドレン」に見えました。戦後的な呪いを回避して子どもたちに責任を背負わせ続ける、という悪循環を断ち切るには、ほんとうは、ゲンドウを中心とする「大人たちの責任」を説得的に描くことが必要とされていたのではないか。それが『シン・ヱヴァンゲリオン』の課題であり、その意味では、『シン・ゴジラ』は一つの実験的な通過点である、ということなのかもしれません。

 しかし、さらに本音をいえば、こんなもんじゃないだろう、なんで特撮やアニメおたくなのに政治家や官僚ばかりに自己投影(あえての理想化?)するんだよ、誰がどう見ても311以後の現実を描く映画なのにこの目線かよ、という思いがあります。東北や民衆や犠牲者の視点を本気で描くつもりがなく、映画人と政府・自衛隊が手を組んで総力戦体制かよ。そりゃないよ。ヒトラーリーフェンシュタールかよ。そう思いました。特撮や映画好きの「男の子」たちの成熟した理想像がこれなのか。むしろこうしたマッチョな男性像を冷笑するのがオタクの本懐だと思っていた。

 少なくとも僕には、『エヴァ』にはありえた複雑な屈託や厚みが、今回の『シン・ゴジラ』からはあまり感じられませんでした。決断力の優秀な人間ばかりではなく、怖がったり、優柔不断だったり、役立たずにみえる人間たちも存在するのが組織というものであり、そういう人間たちも含めて、現実の困難に立ち向かっていく、人々の関係が複雑な化学変化を起こしていく、そこにおいて現実と虚構と理想が相互批評的に入り乱れていく、僕はそのような光景をみてみたいと思いました。

 というよりも、芸術と政治、現実と虚構を反転させ、パッチワーク化させることが明らかに『シン・ゴジラ』のテーマの一つなのであり、 『シン・ゴジラ』は右でも左でもない、純粋な「娯楽」「フィクション」「中立」「ノンポリ」である、というような評価の仕方は、『シン・ゴジラ』のポテンシャルを甘く低く見積もっているのではないか。ナチスリーフェンシュタールの関係にも複雑な政治性があったように、それは「政治性をカッコに入れて美的・技術的な視点からのみ楽しめ」というイデオロギーに似ている。率直にそう思います。

 僕はもっと成熟した芸術批評の視点を持ちたいと思うし、芸術と政治が入り乱れていくようなゾーンで「作品」を倫理的に楽しむとはどういうことか、そういうことを考えたいと思います。そういうことをそのうち庵野論として書こう、と考えています。それは最初に述べた僕自身の中の歪みに向き合っていくことでもあると思います。