柄谷行人論のための(乱雑な)ノート

 *本日のゲンロンカフェの参考までに、ブログにアップしておきます。あまりまとまりがないので、あとで消すと思います

 ●柄谷行人が「批評と運動」の総決算として試みたNAMの無残な失敗は、すでに、忘却され、嘲笑され、スルー(その逆に神話化?)されている。それは当然のことのように思う。それに対し、NAMに至るような運動的な流れよりも、1980年前後の理論的仕事が再評価されることもある(大澤信亮氏、東浩紀氏)。僕もまた、学生時代に「内省と遡行」シリーズから柄谷に夢中になり、そこから批評や文芸評論を学びはじめた人間だから、そういう感覚はよくわかるつもりである。
 ●けれども僕は、それと同時に、2000年頃のNAMの前後に、柄谷行人の中のかつての可能性の再燃があり、復活があったのではないか、とその後も考えてきた(たとえそれが不十分なものであり、運動は無残に失敗し、ありえたポテンシャルは水子化してしまったとしても)。今もそう思っている。それを他人事ではなく、自分の問いとして考え直してみたかった(NAMとの関係に関しては、ゲンロン04の原稿に少し書いた)。
 ●柄谷の「態度の変更」といえば、多くの柄谷読者たちは、「内省と遡行」シリーズから「探究」シリーズへの「態度の変更」を思い出すだろう。しかし、柄谷の態度変更は、つねに反復的であり、永続的であり、複数的なものだった。『探究?』の宣言(彼自身による意味付け=神話化)だけに眼を奪われると、やはり間違うと思う(柄谷自身がアルチュセールを批判してマルクスの転回=移動は複数的だったと言っていたのだ)。つまり、柄谷の人生全体には、「ゲーデル的な自己言及からヴィトゲンシュタイン的な言語ゲームへ」という明快な構図とは異なる、別のタイプの脱構築があった、あり続けてきたのではないか。そう考えてみたい。
 ●東浩紀デリダ論は「ゲーデル的な脱構築」と「郵便的な脱構築」の決定的な違いを論じたが、それにならえば、柄谷の中に潜在し続けてきたのは、ゲーデル的な脱構築とは異なる「自然主義的な脱構築」だったのかもしれない。いわば、唯物論的で非疎外論的(非本質論的)な自然主義宣長=小林的な「日本的自然」ではなく、ギリシア的=ディオニュソス的な自然生成の哲学とも異なるような、特異な自然主義
 ●僕が読み得た限りでは、柄谷のテクストの中から、「郵便」や「幽霊」のような特権的なメタファーを見出すことはできなかった。大事なのは、むしろ、彼が用いる「自然」というありふれた言葉の意味の前に立ち止まり、躓くことではないか、と思えた。
 ●そもそも、柄谷は文壇デビュー作「意識と自然」で、ラヴジョイを引用しながら、夏目漱石が対峙した(一八世紀的かつ明治的な)「自然」には、独特のわかりにくさがある、それを簡単には解釈できない、というところから、すべてを語りはじめていた。実際に「意識と自然」を読みなおすと、これは、多種多様な自然をめぐる定義のカタログのように読める。
 ●重要なのは、初の本格的なマルクス論『マルクスその可能性の中心』の雑誌連載を、当時の柄谷が、柳田国男論の連載とほぼ同時並行的に書き進めていたことだろう。そこで柄谷は、柳田が対峙した民俗学的な自然観を、マルクスの『資本論』の理論に繋ぎ合わせようとしていた。マルクスの経済学批判と柳田の歴史批判のクロスポイントで、自然という謎に向き合おうとした。
 ●(これは大澤信亮氏の「柄谷行人論」も強調していたが、雑誌掲載版のマルクス論にはかなり豊かな可能性があったように思う。それに対して、単行本版としてまとめられた『マルクスその可能性の中心』は、すでに「テクスト論的」な構えになっていて、雑誌掲載版のマルクス+柳田的なポテンシャルがかなり削ぎ落とされている)。
 ●柳田批評のモチーフは、自然に対する私たちの「精神の力」とは何を意味するか、にあった。いわば「自然としての資本主義」の中で、無力な人間には何ができるか、知性とは何か、「精神」の「力」とは何か、と。
 ●柳田は実証的な科学を重視したが、それは狭義の自然科学ではなく、自然科学/人文科学などが区別される手前の、一切を含めた「自然学」と呼ぶべきものだった、と柄谷はいう。ベーコンやデカルトにとっての自然科学もそうだった。そこでは、科学と芸術と宗教をはっきりと分けることができない。柄谷にも彼固有の「自然学」がある。ヘーゲルマルクス吉本隆明らの「自然史」という概念を継承しながら、柄谷はそれを、彼なりの独自な視点から更新しようとしたのだと思う。
 ●こういう問いは、一九八三年の「批評とポストモダン」以降の、「資本主義のダイナミックな力によって、共同体や日本的自然が無限に脱構築されていく」「資本主義こそがコミュニズムである」というスタンスからは、いちど消えてしまった。
 ●柄谷には、ずっと書き直し続けてきたテクストがある。一つは、マルクス論のシリーズ。もう一つは漱石論のシリーズ。それらを媒介するのが柳田国男論だったように思える。『日本近代文学の起源』も柳田論の展開の一つだった。
 ●しかしある時期から、柳田の文脈が弱くなっていく。図式的な言い方だけれども、たとえば『トランスクリティーク』周辺では、マルクス(経済)とカント(倫理)の接続が試みられるが、そこではフロイト(欲動=自然)の軸が消えてしまう。しかしもともと、柄谷の原点には、マルクス(経済)と漱石(倫理)と柳田(欲動=自然)の絡み合いがあり、緊張関係があったのだ。
 ●ふりかえってみれば、柄谷の出発点にも、じつは、同じような自然過程の抹殺があった。群像新人賞を受賞した漱石論は、単行本版と大きく異なる。ほとんど同じ論文とは思えない。今、我々が普通に読める単行本版では、江藤淳漱石論の脱構築が試みられ、「倫理的な他者か、存在論的な他者か」が問われる。その際のポイントは『坑夫』論だった。柄谷のこの漱石観は、のちの漱石論に大きな影響を与えてもきた(小森陽一など)。
 ●しかし、もともとの雑誌掲載版の「〈意識〉と〈自然〉」では、江藤よりも吉本隆明の影が濃く、そこでは(出産や老いを含む)自然過程の問題が問われていた(当時は、私生活でも結婚、父親の死、子どもの誕生、生活上の金銭問題などがあった。群像新人賞の「受賞の言葉」参照)。つまり、そこでは自然主義的な他者が問われていた。そして雑誌版の「〈意識〉と〈自然〉」がポイントに置いていたのは『坑夫』よりも『道草』だったのである(単行本版「意識と自然」においても『道草』論がポイントだと個人的には思う)。
 ●ちなみにこの時期の柄谷は、マルクスのこともかなり積極的に批判している(一九六七年の「新しい哲学」、一九七〇年の「自然過程論」など)。そこにはやはり、資本主義もまた自然過程の一部であり、マルクスの『資本論』は問いを経済と倫理のみに切り詰めてしまった、という認識があった。それをたんに、この時期の柄谷は初期マルクス的な疎外論に乗ってしまっていた、と切り捨てることはできないと思う。
 ●自然過程に向き合い、それに躓き、畏怖し、そののちにそれを抹殺すること。それが柄谷のオブセッションであり、宿命であり、欲動だった。「畏怖する人間」とは、自然を畏怖する人間のことである。すると、畏怖する無力な主体が「自然としての資本主義」に向き合うとは、どういうことなのか。その中で何ができるのか。
 ●『トラクリ』に至る前後の資本主義批判には、マルクス柳田国男の頃の「資本主義は自然過程を含んでいる」「自然史としての資本主義」という重層的な認識を取り返すような何かがあった、少なくともありえた、という気がしている。少しみてみる。
 ●たとえばそもそも、『トラクリ』連載前の「探究?」や、「死とナショナリズム」(1997年)等では、フロイトタナトスについての議論が展開されていた。タナトスによってかえって超自我(倫理)が形成されていく、自己破壊衝動によって他者への攻撃性をぎりぎりでねじ伏せる、といういわば毒をもって毒を制す的なナショナリズム論には、不気味な欲望の気配があった。
 ●細かい点を積み上げてみる。『トラクリ』前後の柄谷が、資本主義に全面的に対峙し直したこと(世界システム論やエコロジーなどを接続した)。倫理的なゾルレンを再点火したこと。体系化への意志。新しい認識の枠組みをいくつも出してきたこと。その辺りには、無視できないものがあった。正確にいえば、そのような情熱へと柄谷行人を強いる欲動の不気味さが気になった。
 ●柄谷は、資本主義を揚棄するとは、それを転覆したり破壊したりすることではない、と何度も強調していた。資本主義的な交換様式をもっと自由なもの、非暴力的な欲望を解放しうる交換の形へと推し進め、深化させること。どうやら、そういうことだった。それはかつての柄谷が、柳田+マルクスの先に自然史的な資本主義を幻視したことを思い出させた。コミュニズムよりもアナーキズムに近いとも言った。馬鹿にされたくじ引きの話もシステム内に理不尽な偶然性を持ち込むことだった。 *1
 ●しかし、繰り返すけれども、『トランスクリティーク』で気になるのは、マルクス(経済)とカント(倫理)が媒介されるけれども、フロイト(欲望=自然)の問題が消えてしまっていることだ。そして『トランスクリティーク』は、あまりにも早く、問いが未成熟なままに体系化に走ってしまった憾みがある。たとえばこの本では、家族や生殖・再生産などの自然過程に関わる次元が完全にカットされてしまっている。
 ●『トランスクリティーク』よりも『NAM原理』の方が僕は好きである。現実的に、一般に柄谷の総決算とされる『トランスクリティーク』から、すでに、柄谷のその後のテクストの異様な「つまらなさ」が始まっているのであり、『NAM原理』の生成を『トランスクリティーク』の体系に解消した時に、決定的な何かが見失われたのではないか。
 ●『トランスクリティーク』は、すでに、柄谷が頭で整理し、整序してしまった、という感じがする。それに対し『原理』は、確かに柄谷が執筆してはいるけれども、それでもやはりこれは集団制作的な綱領であり、柄谷の私的所有物ではなく、協同所有物である、というか、誰のものでもなく誰のものでもある、という手触りが痕跡として残されている。実際にNAM原理には幾つかのヴァージョンがあった。
 ●《それを実際に書いたのは私であるが、この過程で、西部氏をはじめ、十数名の人に検討してもらい、さらに実践的な試行錯誤を経て、ようやく公開できるようになったわけで、これは、協同的な、つまり、それ自体NAM的な産物である。実は、「NAMの原理」はまだ完成していないし、完成するものでもない。それは絶え間ない生成過程にあり、今後の実践の中で書き変え書き加えられていくだろう。》(『原理』序文)。
 ●この「序文」は、それ自体が柄谷のパフォーマンスかもしれないけれど、やはり、重要な論点を含んでいたと思う。たとえば近年の柄谷は「憲法の無意識」を言う。日本国憲法がたとえ外部(他者)からの押し付けであり、強制であったとしても、時間をかけてそれと対峙し、葛藤し続けることによって、戦後憲法は民衆=人民の所有物になっていった。同じように、NAM原理も、たとえ柄谷というカリスマ/独裁者が書いたにせよ、それは必要な時間の試練を受けて、誰の物でもなく、誰が使ってもいいような、無意識のレベルにおける所有物になりうるものだった(その意味では、柄谷=王=カリスマと戦えなかった一般会員の僕らには確かに責任がある)。
 ●『NAM原理』は、じつは正式名称は『原理』である、と東浩紀氏が言っていたけど、だとすれば、『原理』は、NAMという一つの組織のものですらなく、誰のものでもあり、未来において誰かが自由に「書き変え書き加えて」もいいものだ、と言えるのかもしれない。
 ●そもそもマルクスエンゲルスの『共産党宣言』も、彼らの独創とは限らず、当時、彼らの周辺で議論され、考えられていた様々な事柄を、彼らが寄せ集めて、まとめたものである、という見解もある。すると『宣言』には、そもそも、固有名が付されるべきではなかったのだろうか。
 ●それは僕の個人的な関心でいえば、障害者介助の世界において、一九七〇年前後の「青い芝の会」の5項目の「行動綱領」が今でも参照され、生々しく僕らを脅かしたり、勇気付けたりしている、というような感じに近いだろうか。
 ●とはいえ、今手元にある『NAM原理』のテキストの中に、倫理と経済と自然を同時に問い直すような自然史的な「批評と運動」の理論があるかといえば、そうは言えない、そこまでは言えない、と思う。逆にいえば、批評と運動の間に――オカルトにもカルトにもならずに――自然的身体や欲動のレベルを結びつけることは、極めて難しいことなのかもしれない。
 ●(トラクリ以降の仕事としては、『遊動論 柳田国男と山人』(2014年)は相対的に面白いと思う。特に4章で柳田の『先祖の話』をめぐって、家族と祖霊信仰を論じたところ。再びオカルト的な傾向が出てきてもいるが、日本的家族をいかに脱構築するか、という問いがある。血縁家族でも法人的イエでもなく、祖霊=死者(小さく、弱いもの)との関係から家族を考え直すこと。非血縁的な養子制度を脱構築して、いかに世界化=普遍化するか。死者や水子との共同。「小さいこと、あるいは、弱いことは、普遍的であることと背反しない」。)
 ●あそこにありえたかもしれない可能性、死産し、水子になってしまった「希望の原理」について考え続けることは、僕にとって、今も重要な問いである。しかし「批評と運動」「倫理と経済」をいわば欲望=自然過程(生殖・再生産・生命進化等を含む)から問い直すとは、どういうことなのだろう。
 ●(たとえば、ゲンロン04の原稿で書いたことだが、僕は、ゼロ年代の反貧困運動やロスジェネ的な運動のポイントは、生存運動(生を無条件に肯定する運動)だったことにある、と考えている。しかもそれは、ある面では、1970年代以降の当事者運動やマイノリティ運動を継承し、更新しようとするものだった。その場合の生とは、人権的な生命至上主義にとどまらず、ポストヒューマンやノンヒューマンな方向へも開かれていた……のかもしれない。実際にそこには様々な障害者や性的マイノリティなどが合流していた。そのような可能性をもう少し考え続けてみたい。)

*1:逆にいえば、かつてマルクスが言っていた「資本主義的生産様式」とは、現在の我々がイメージするような「資本主義」とは少し違うものなのかもしれない。最新の文献研究によると、晩期マルクスは恐慌革命論より長期的な改良闘争を重視し、また物質代謝論に基づいて、エコロジー、共同体論、ジェンダー論等を包摂した資本主義批判を構想していたという(佐々木隆治)。マルクスのすごいところは、畜産、地質、鉱物、植物、天候、有機化学……ありとあらゆる学問や知識を使って、「現実」そのものの法則を何が何でも理論的に考えつくしてやろう、という異様な情熱と粘り強さにあると思う。マルクス「のように」現実に向き合えるか。そういうことを問われてしまうと思う(たとえば東氏は『一般意思2.0』で、ルソーの民主主義論にネットの無意識的欲動を重ねたが、そこで描かれる「ネット的なもの」の不気味さは、マルクスの言った「資本主義」の不気味さに少し似ている気もする)。