高岡健『やさしい発達障害論』書評



 以下は、ちょっと前に『かざぐるま』(2009年4月号)という神奈川県の障害者福祉関係のニュースレターに掲載された書評です(字数の関係で削った部分を復元してあります)。

 高岡健『やさしい発達障害論』書評


 題名に反して、本書は「啓発」の本ではない。事実氏は言う。「本書は、多くの発達指南書とは、一線を画しています」。もちろん高岡氏は、精神医学の科学的知見や蓄積を放棄しない。しかし、氏が目指すのは逆に「分断線を消し去る」ことである。発達障害と知的障害、発達障害のある人とない人の間の分断を、また軽度発達障害などの新しい細分化を、氏は繰り返し批判する。本書の一見平易な言葉の底にあるのは、「発達障害」という言葉の周囲で加速度的に生じる強迫的な分断への違和であり、それに加担して稼ぐ専門家や支援者への違和である。
 大切なのは、高岡氏が一貫して、障害をめぐる分断を、工業化/高度産業主義化/複雑化という社会−経済構造の変化の中で捉えようとする事実にある。一九八〇年代のアメリカではLD学級には白人中産階級の子が多く、行動障害クラスには黒人が多かったこと。TEACCHを生んだノースカロライナは白人コミュニティを前提とする街だったこと。AD/HDと判断される子は非白人の貧困層が多く、集団的な薬物管理が行われてきたこと。詳細を知るにはさらに実証的な検証が必要だろうが、大切なのは、氏が「障害」を専門知の中に囲い込むのを拒絶することだ。自閉症の現実を経済問題ではわりきれないのは当たり前だが、社会階層や経済問題(そしてその相からみられたる家族制度問題)を完全に無視して自閉症者のおかれた現実をとらえることもできない。しかし善良な「福祉」の人間はこのことを忘れる。しばしば忘れる。
 では社会的な分断を「超える」とは何か。人権や福祉平等を推し進めることではない。むしろ高岡氏は問いを完全に逆倒する。自閉症者こそが「人間存在の原点」を生きる純粋な存在なのだ、と(『自閉症論の原点』)。ならば「発達や成長とは、何かを獲得していく過程ばかりではなくて、大事なものを少しずつ捨てていく過程でもある」、何かを失っているのは君たち「定型発達者」の側ではないか。――本音を言えば、この高岡氏の原点論(疎外論自閉症者への投影)に、私は全く賛成しない。むしろ自閉症者の神秘化と放置に帰結すると危惧する(谷川雁吉本隆明に由来するとおぼしい「原点」論がある傾向の自閉症論者たちに珍奇な悪影響を与え続けるのは何故か)。しかし氏の原点への拘泥は、少なくとも次の支援観をひらく。「障害そのものを変えようとか、軽くするんだといった、思い上がった発想をきっぱりと捨てて」「子どもたち自身による、自然な成長力や回復力の妨げになるようなものを、いかに取り除いていくか」。どんなに科学的・密教的な自閉症支援プログラムを積み上げても、なおそれを突き放す感触がある。それを忘れてはならない、と。その意味で本書は「やさしく」ないし、何も指南しない。私たち「定型発達者」の活動と生を無限に懐疑に付す「原点」の絶対零度を、そしてそこから結び直される未来の「共同性」の可能性を、はるか先に指し示すだけである。



やさしい発達障害論 (サイコ・クリティーク)

やさしい発達障害論 (サイコ・クリティーク)

自閉症論の原点―定型発達者との分断線を超える

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