ある知的障害者入所施設で自閉症・強度行動障害の人の専門的支援を行うKさんを呼び、学習会。自分の勤める法人の人6名もまねいた。
 とても沢山のことを考えさせられた。Kさんの話から自分が考えたこと、思ったことを書く(以下Kさんの意見をそのまま書くわけではない、Kさんの意見を知るにはKさんの話を時間をかけて聞くしかなく、自分も2時間ばかり話を聞いただけだから、当然その支援法の一部分を知ったにすぎない)。
 以下、とても回りくどい書き方をする。
何かが性急にわかりたい人は、読まない方がいいと思う。どうやら何もわからないようだ、ということについてのノートだから。


 まず、特別な支援法なんて別にいらず、ごく普通に、自然につきあえばよいひともいる。
 これが前提で、前提だけど時に忘れられがちで、その上で、他害・破壊・自傷などの行動が日常的にあり、しかもそれがかなり強く、それで周りの人が困り、それで本人も困る人々は確実にいる。そんな人々に関わるには――少なくとも「そのままでよい」「本人の自己決定だから、ありのままでよい(そしてそれを周りの健常者が絶対的に受容すべき)」とは考えずに、支援者がその人の〈社会性〉のポテンシャルをよりひらく方向を目指したいならば――、一定の専門的知識と介入的な「方針」がいる。もちろんここは簡単にはいえないことだが(あとで少しふれる)。
 それは、「この」社会での相互の共存へと向けた支援、という意味となる。
 マジョリティ=健常者のルール・規範のもとに、さまざまな障害当事者の生活を強制的にあてはめ、馴致させてしまうことではない。相互の共存のために自分のルールを壊し、調整し、適合させていくのは、当然だけど支援者や健常者の側も同じ(平等な相互性なんてない、明らかな力関係の差がある、という批判はさらにありうる)。ここは常に危ういバランスの中にある。


 その上で、いくつかの自閉症支援の方法論があり、それぞれの方法論に特性があり、全ての当事者にあてはまる万能で包括的な支援方法は、少なくとも今は、ない。そしてこれが大事なのだけど、ある支援方法があり、それがうまく適合する人もいれば、その支援プログラムから不可避にドロップアウトする人もいる。時に一つの方法論は、失敗例を無かったことにする。
 だからいくつかの支援方法を試す機会とルートが確保され、その人の特性にふさわしい支援方法を自由に選びうるのが望ましい。さらにいえば、自閉症者の障害・生活特性と、各種の支援方法のあいだをコーディネート出来る人がいるのが望ましい。が、これは本当に難しい。色々な制約が、難しさがある。はかりしれない。


 前提が長くなったが、Kさん達の「自活訓練指導」チームでは、社会の規範・ルールを、本人に徹底的に教える、指導する、という方針を明確に選ぶ。手探りの経験と格闘の中から選び取られた。
 そして常動行動・こだわり行動を、「その人が好きでやっている」「やりたくてやっている」とは必ずしも考えず、ゆえにそれを受け入れず、はっきりと制止する、という。
 例えば大量の水道水を定期的に必ず飲むというこだわりがある。それを必ずしも「本人が好きだから飲み続ける」とは考えない。時には場面回避行動としてそれを行う、とも考える。だからKさんのチームは、パニックに陥るとしても、職員が何度も殴られ蹴られても、その人がこだわり的に水を飲むのを制止する。とめる。例えば、本人がパニックになったあとに、職員がそれをおさえる、という対応がある。おさえて、本人が落ち着くのを待つ。しかし、これは「待ち」にすぎず、消極案=対処療法にすぎない、と彼らは考える。それではそのひとの精神に社会的な規範、やってはいけないこと、が入っていかない。延々と同じ状況が繰り返されるだけ。そう考える。不思議なことに、最初はどんなに大変でも、数ヶ月それを繰り返すことで、常動・こだわりが無くなる(場合がある)。
 しかしこれはとても危ういことでもある。
 例えば、本人の社会性をひろげるために、外出とスーパーでの買物を繰り返すとする。その人は、ちょっとした刺激(アイスだけじゃなくジュースも買おうよ/レジでの人の多さ/電車内でいつも座る先頭車両の左最前列に他の乗客が座っていて、どいてくれなかった/など)でパニックになり、店内・車内で暴れる。しかし、社会の規範・ルールを伝えるために、本人がよりひろい活動範囲で生きられるように、支援者がそれを繰り返す。すると、支援者チームにも意見や対応の違いがあるから、中には、近隣の人気のない自動販売機で買物を済ませようとする人も出てくる。確かにそうすればパニックはない。支援者も安心できる。しかし、これでは「買物に行く」という行動の当初の意味が失われる。何年外出と買物を続けても、状況は変らない。万事が例えばそういうことだ。
 ある種の支援法には、「マグロ」「スクワット」という悪名高い方法がある。本人が混乱しパニックに陥りそうになった時、「そこに寝転がって」「スクワットして」と指示を与える。状況の次元をずらすためだ。それがどんな支援目標のための行為かを考えず、表面的に見ると、すごく強圧的というか、軍隊式に見える。誤解も多い。外から見た場合だけではない。支援者にも。例えばスクワット自体が目的化し、その人を支配するための便利な命令になってしまうからだ。万事がこんな危うさを持つ。だから、有名な支援者の中にも、あまり人前で話すことをしない人もいる。誤解されるばかりだから。表面だけを受け取ってしまうことの危うさ。それは幾ら強調しても足りない。わが身を振り返って、そう思う。もちろん、それらの支援法の「深み」を知った上で、やはりそれは許されない、と考える人はいていい。


 実際は、強度な行動障害のあるひとは、例えばぼくのヘルパー事業所にはあまり来ない。近い人は何人かはいる。でも多くはない(最初は特に問題のない人だと思っていたのが、だんだん状況が悪くなる、というケースは何故か数ケースある)。そもそも強度行動障害とよばれる人々への特別支援は、もちそんその底にはそれよりはるかに深刻で数も多い家族の悲鳴があるのだが、日本では施設系の支援者の悲鳴から始まった。施設なら、施設内での、チームでの、継続的な支援ができる。在宅・外出を一対一で行うヘルパーでは、それは厳しい。難しい。さらに家族の意向との深刻な対立もある(入所施設では、良くも悪くも、いったんそれを切り離せる)。
 自分の周囲のヘルパーは、自閉症・知的障害をもつひとへの別に明確な支援法を採用してはいず、対応は個人のヘルパーのやり方・力量に落ち着いてしまうのだけれど、全体としては、TEACCHや受容的交流のいち部分を導入した感じ、という気がする(個人差が本当にあるんだけど)。基本的に本人の楽しさを尊重し、障害特性を受容する。そういう受容型であり、「指導」や「介入」はなるべくしない。そういう方向で来たが、おおむねそれでよいのだが、時にそれでは対応がすまない、足りない、と思われる場合もある。その辺がひっかかりになっていた。
 今後、行動援護の導入と共に(自分達の法人が行動援護を行うか否かも実は議論さえ進んでいないが)、在宅系の支援者が、その種のノウハウをもう少し必要な状況になる可能性はある(もちろん、基本は、施設と同時にヘルパー事業などを展開している社会福祉法人などが対応することになるのかもしれないが)。
 個人的には、半年ほど前に、ものすごく強い他害のある自閉症の人(の家族)から土日の外出依頼があって、福祉事務所も二人介助の許可を出していて、3ヶ月ほどその人が通う通所施設やワーカーさんと話し合いと様子見があったのだけど、結局、杉田の個人的判断で「ヘルパー派遣は出来ない」と判断した経緯があり、それが今でもすごくひっかかっている。もう少し専門的な・チーム的な対処法があれば、何とかなったのでは、と(ただ、その人は家族の問題も色々あり、単純に外出支援の部分だけではなかったのだが)。


 そういうもろもろが今の自分の課題だったので、知り合いだったKさんに一度話を聞いてみたかったのだった。


 当面各種の支援方法論を調べるけど、たとえば、各種の専門的方法論・アプローチをぎりぎりまで勉強し見学した挙句、結局どの方法論も自分にはあわない、つまり方法論などない、という結論にいたるならば、それはそれでよい。そういう「信」もありうると思った。どんな方針の方法論が選ばれる(選ばれない)にせよ、最後には、支援者個人の力量・スキル・人生観が問われるほかにない。単純だが、そこに戻る。そこが原点となる(支援者ごとの違いがあってはならない、自閉症者にとっては悪い刺激になるから、という方法論もあるようだけど)。だから個人が徹底的に支援のやり方を学び、当事者と向き合う日々から経験をつみ、自分を鍛えるほかにない。


 受容も本人の生活への介入のいち形式である以上、受容的交流であれ介入であれそれ以外であれ、他者の生活への《介入》という問題はどこかで考えたほうがいい。改めてだけどそういうことを考えている。