ある怒り

 ある障害者サポートNPOで働く人から、次のような話を聞いた(杉田語に変換してあります)。


 ――久々に頭に来た。給料が漸次さがると。福祉予算削減と共に仕方ないと(本当にそうか、疾しさなくそう胸を張って言い切れるのか)。自分の生活と障害当事者の生活を公平にかんがみて、あとは仕事を続けるか各自の「自己決定」「自己決断」で選んでくれと。他にどうすることもできないと。だが、と自分は思う、自分達(つまり、やろうと思えば経営の改善にいくらでも着手できた常勤者たち)に、それを非常勤の人々に言う資格があるのか。とくに、時給がいくらになろうが今の職場でこの仕事を続けられる人間に、それを言う資格があるのか。経済的余裕のない人間、一定の生活費が不可欠な人間ほど、葛藤を強いられるだろう。今の自分の仕事へのささやかな誇り、障害当事者とその家族の人々との関わり、積み重ねたそれらの大事さ。他方に厳然とある日々の生活費の重み。そんな葛藤と無縁なあなた達が、偉そうに「あとは自己決断してくれ」と口にし、適当な罪悪感だけ感じて、何事もなかったかのように仕事を続けるのか。それはあなた達が敵対すべき「厚生労働省的なもの」と全く同じ、鏡像的に似通ったやり口ではないか。口当たりはよいが、自然な仕方なさを偽装した単なる排除、生活条件的にその場にいられない人の明確な排除(そして、その決定の責任をその人に押し付けること)ではないか。何故単純な事実がわからないのか。自分もまたあるやり方で一定の継続的責任を自果たすべき、と考えるが、それはともかく、「自己決定」「自己決断」でことを済まそうなんて絶対に思わない。たんに謝る。決定権のなかった人々、自分達を信じて共に働いてくれた人々には、心からすまないと思う。自分達、運営に関わった人間の圧倒的力量不足だった。何の経営的才覚もない素人同然の集まりだった。自分も一時期、本当に一時期だが、経営部会に積極的に介入し、何かを立て直そうと思った。当然、何の経験も知識も力量もなく、あっという間に燃え尽きた。深く深く精神的に落ち込んだ。それが限界だった。何も出来なかった。やるべきだったことが全く出来なかった。せめて、運営決定と経理だけでも機関的に明確に分離できていれば、もう少し何とかなったかもしれない、と悔やむ。だが、ごちゃごちゃしゃべっても結果は変らない。だがそのことについて、死んでも「あとは本人の自己決定」「自己決断」なんて卑劣なおしゃべりを口にするなよな。