福祉アンダークラスとは誰か?



 栗田さん(http://www.h7.dion.ne.jp/~ryu007/)から『寿支援者交流会』(二〇〇四年冬号)を郵送して貰う。特集の一つが「ひきこもりと野宿生活者」。
 栗田さんの「襲撃者/傍観者でありうるあなたとわたしへの覚書」を読み、考えたこと。
 以下に、ほんの少し。


 姜尚中は「世界は国家間戦争ではなくて、市民戦争の状態に入った」と述べたあと、市民戦争状態の下では「福祉アンダークラス」が「社会の敵」になる、と述べた。上野千鶴子はこれを引き、日本の場合、福祉アンダークラスに対応するのは「ひきこもり」と「シングルマザー」ではないか、と発言した(『結婚帝国 女の岐れ道』ISBN:4062124130)。栗田さんはこれを引き、福祉アンダークラスには「野宿者」の存在も入るのではないか、と述べる。事実、ひきこもり者は親の庇護が無くなれば野宿者へ移行する可能性を秘めている以上、「野宿者が襲撃されるような世の中であるならば、引きこもりの状態の人もその対象となりうる事を真剣に考えるべきなのかも知れない」。


 日本の現状を見ると、フリーターやニートもまた近い将来、野宿生活へ陥る人が少なくないと予想される。
 H・ギャンズという人は「アンダークラス」に関して

 この言葉はフレキシブルであるが故に(略)貧しい人々、不法移民、十代のギャング成員もまたしばしばアンダークラスと名指されることになる。実際、行動的定義の甚だしいフレキシビリティによって、この言葉は貧しい人々を、その実際の行動がいかなるものであれ、スティグマ化するラベルとなる

と述べているが*1、だとすれば、この福祉アンダークラスも「貧しい人々を、その実際の行動がいかなるものであれ、スティグマ化するラベル」なのかも知れない。
 ひきこもりやシングルマザーや野宿者だけでなく、各種の障害者や外国人労働者や難民(難民以前の難民)もまた同じラベルを貼り付けられていく。(アンダークラスと福祉アンダークラスの境界線はどの辺にあるのだろう?フリーターは?)生活保護など社会福祉の対象となる(なりうる)人々は、わかりやすくいっしょくたにされ、ずるずるべったりのまま「社会の敵」とされ、襲撃され続けるのかも知れない。逆に言えば、障害者は「障害者だから」襲撃されるのではなく、ひきこもりも「ひきこもりだから」襲撃されるのではない、という面もあるのだろうか。


 この場合、「襲撃」は、物理的な暴力だけじゃなく、「社会の敵」「怠け者」「働いていない」「税金の無駄遣い」……などの世間圧力のレベルでの暴力を含むだろう。
 実際ひきこもりやニートなどは「働け」「働かなければ生きる資格が無い」という強い世間とメディアの圧力を絶えず被る。その先には「奴らは徴兵して戦地へ行かせればいい」という情念的な徴兵肯定論も噴出する。経済主体として「国民化」出来ないなら、軍人主体として立派な「国民」になれ、という意味なのだろう(実際は軍を出たあとひきこもる韓国の若者の例などを見てもhttp://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040418、徴兵が若者問題を都合よく全て解決する魔法の案ではないことは明らかなのだが)。野宿者の人々もこの両面で攻撃される。
 想像だけれども、「住む場所」の問題はたぶん今後さらにクリティカルになると思う。ひきこもりやニートが現時点では物理的な襲撃を受けないで済むのは、彼らが親の家・自分の部屋という居住空間に守られているからだろう。野宿者のダンボールハウスやテントは物理的に放火などの襲撃を受けやすい。
 ただ、やりきれないのは、こんな世間圧力を当のアンダークラスな人々が内面=規範化してしまいがちな事実で、弱者はそれを押し付ける強者に抵抗も批判もできない(と思い込んでいる)から、圧力は自分よりさらに弱い立場に置かれた人々へ押し付けられることになる。むしろ自分とよく似た境涯にある人々こそが、叩くべき――というか、叩きやすい――「敵」になってしまう。


 するとこの襲撃への抵抗、対抗襲撃は、経済的フェーズだけじゃなくて、世論的・政治的・メディア的なフェーズでも同時にたたかわれる必要がやはりあることになりそうだ。

*1:酒井隆史『自由論』ISBN:4791758986