抑圧移譲を切断するために

 別の場所(http://8212.teacup.com/sugitasyunsuke/bbs)での、松井さんのコメント。

 丸山真男氏は「超国家主義の論理と心理」の中で、「抑圧の移譲」−「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系」−ということを言っていますね。教育や訓練、統治や指導は、正当かつ必要な「抑圧」を伴うものだと私は思いますが、それは集団生活の「ルールを教える」ことによって、個人の恣意や暴力、不注意や怠慢を「抑圧」または「排除」する必要があるからです。しかし、抑圧移譲の体系においては、集団生活の規則の強制と個人の恣意の強要とが混同されている(大西巨人神聖喜劇』は、軍隊における教育・訓練の問題を扱うことで、この二つの側面−法的・論理的暴力と個人的・恣意的暴力−の絡み合いを浮き彫りにしている)。


 ブルックス・ブラウンの『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』を読んで衝撃を受けたのは、コロンバイン高校の日常にもまさに抑圧移譲の体系が張り巡らされていて、犯人たちによる無差別殺人はいわばそれに対する応答−抑圧移譲の論理に従った「下からの報復」−として位置づけられるということでした。抑圧移譲の体系が学校だけでなく、警察や一般市民の生活にも浸透していることは、犯人たちの友人であったブルックス・ブラウンが、危うく被害者になることを免れた一人なのに、「社会の敵」のような目で疑われたり敬遠されたりすることからもわかります。


 ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』では、いじめや暴力の問題は前景化されていないけれども、高校という同じ生活空間の中にあって、各人(グループ)がそれぞれモナドのように孤立した世界を形成していて窓(コミュニケーション)がない状態を描いていて、事件が起こる前から何かしら不吉な予感、悲劇的な予兆を感じさせます(同じ場面が複数の視点から捉え直されるときに観客が感じるのは、「断絶」した現実の感覚です。ちなみに、監督は主に場面とその流れだけを設定して、人物たちの会話は俳優たちのアドリブに任せたという)。
 この「窓がない」状態の息苦しさは、たとえば村上春樹の「沈黙」でも描かれている。「モナドには窓がない」という事態こそがキルケゴールの言う「絶望」でしょう。そこから「絶望的に自己自身であろうと欲する」試みが、突発的な「襲撃」という形をとったとしても不思議ではない。しかし、それも絶望の一形態でしかない。


 ブルックス・ブラウンの本は、次の言葉で締め括られています。


《コロンバインの不当さから学ぶんだ。…他の誰かを待ったりしてはだめだ。あんな世界を自分の周りで生み出させてはだめだ。無力なままでいてはだめなんだ。
 希望を捨ててはだめなんだ。》