日本国憲法についてのメモ・・

 『広告批評』の特集「日本国憲法第9条」を読んだ。68人のアンケートと、池澤夏樹大塚英志高橋源一郎の鼎談。
 日本国憲法に関してはぼくは全然勉強もしてない。でもきちんと考えたい、とは感じていた。今のところ考えていることを、少しメモ。


 「君は改憲派護憲派?」と問われれば、ぼくは「改憲派」と答える。
 当り前だけど、憲法は人々(people)のためにあるのであって、これは逆にならない。憲法なんてどんどん「よりよく」書き換えていくのがいい。当然だ。他の国では別に珍しいことじゃない。憲法が長らく手付かずのまま書き換えられなかったことの方が、少し変なんじゃないか。例えば、近い将来国民投票が行われて9条が改正されても、「またすぐに書き換えられる」状況を草の根的につくっておけば、再び「よりよく」書き換えてしまえばそれで済む。だって50年前につくられたものだし、現状の憲法の文面に足りない点はいくつもある。理想論でよければ、そうなる。


 正直、憲法9条だけに限って「君は改憲派護憲派?」と問われると、何だかヘンだなって居心地がわるく思う(だから『広告批評』のアンケート、問いの立て方にも違和感がある)。「右」と「左」のスローガンの投げあいになってしまう。
 でも「現実的」に考えると、現状ではどうしてもこの9条への特化がリアルな問いになってしまう。日米関係のリアル政治があるから。
 多くの人が言うけれど、9条でうたわれる「平和」と戦争放棄は、安保条約をふくむ日米関係とワンセットになっている。これじゃたしかに強国に守られながら美しい理想をとなえるダブルスタンダードだろって言われても仕方もない。
 ちゃんとスジを通すには、安保条約(に象徴される不自然な対米従属)を破棄した上で、(1)9条を護持し、自衛隊を破棄するか、(2)9条を改変した上で、自衛隊をきちんと「軍隊」として位置づけるか、が必要になる。でもそうなっていない。そこから生じる二つの矛盾、「アメリカから押し付けられた憲法の中で日本国の自主性をうたっている」「憲法9条で明確に軍隊を否定しながら現実には自衛隊がいる」という矛盾が、人々の心性を確かにねじまげている(天皇に関する1条の矛盾もある)。言葉への信用を失わせている。「右」と「左」の人も、少なくない人が正直、憲法なんて全然信じちゃいないし、自分たち(だけ)の利権を主張したいだけなんじゃないかな。そのことが、ますます憲法の基本的な力を損ね続けている。


 アメリカの押し付け憲法は日本人の自主性を奪う、改正しろ、と「右」の人々は主張する。でもじゃあ改正は誰がするの。一部の官僚でしょ。すると、peopleからすれば、自分らに憲法を押し付ける相手が、アメリカから官僚組織に変るだけのこと。国民投票だって、現状では選択の余地がないそんな二者択一になる可能性が高いらしい・・。


 憲法なんてどんどん「よりよく」書き換えていける状態がいい、とぼくは言ったけど、この時大事なのは、その「手続き」=過程をどうやって適正化できるのかな?peopleがどうやって自分たちの意志を反映させ(政治家や官僚に「押し付け」的に掠め取られることなく)具体的に憲法の文面に書き込んでいけるかな?という点にある。池澤夏樹大塚英志高橋源一郎の鼎談でも、このことが核心的な問いになっている。憲法私案のススメや外国語からの翻訳の試みも、そのことと関わる。国民投票だけじゃ、本当にpeopleの意志をきちんと反映した憲法の文面にはならない*1
 でも正直、ぼくはこの《手続き》に関しては、今のところ具体的なアイディアがない。イメージとしては、下から「押し上げていく」のがよいしまっとうだ、とは思う(ぼくは別に「大衆は善だ」とは言っていない)。でもそれは具体的にどうなるの?
 答えられない。


 それを認めた上で、ぼくが日本国憲法の文章の中で徹底するか書き換えていきたい、と思う点・・*2


 (1)25条の1(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する)を、よりはっきりと打ち出す。野宿者や障害者が置かれている状況は、憲法9条自衛隊の存在が矛盾するように、憲法の理念と矛盾している。矛盾はただした方がいい。さもないと、憲法そのものへの信頼が損なわれる。その上で、現25条の「健康で文化的な最低限度の生活」という言葉はまだまだ物足りなくて、例えば明らかに深刻な苦境に置かれた人がさらに「最低限の生活を与えてやっているだろ?感謝しろ」とばかりに責められる状況は残存し続けている。よって25条は、第13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)と、はっきりと組み合わせて考えたほうがいい。「すべて」のpeopleは「個人」として「最大」に「尊重」される必要がある!のだ。


 (2)高橋源一郎は、「難民の問題には、国民だけに権利を与える憲法立憲主義では、対応できない」(大意)というある思想家の言葉を紹介している。しかし、池澤夏樹が鼎談で述べているけれど、「people」は「国民」ではない。少なくとも一対一対応ではない。揺らぎがある。この揺らぎの部分が大切だ。日本国憲法には、「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」という文言はあるが、外国からの移住者、難民の受け入れに関してはまだあいまいだ。この部分を明確に書き込みたい。これが(1)につながる。(2)がないと、(1)もまた国内の「日本人」だけがよければいい、という排他性を拒めない。しかし(1)がなければ、(2)もまた「能力のある外国人だけを受け入れ、単純労働力は受け容れない」という日本国が対外的に取って来たフィルタリングを拒めない。

・・そして、何より「押し付け」(アメリカ/国内官僚)を許しているのは、peopleの側の草の根的な「あきらめ」だって素朴に思う。「押し付け」と「あきらめ」がここでもワンセットになっている。自分自身の憲法への関心の薄さを含めて。でも憲法の存在については、やはり一人ひとりのpeopleに(義務じゃなく)責任があるのだ*3
 まずはその辺りから始めよう *4

*1:加藤典洋による「国民投票=戦後憲法の選び直し」の提案は、そこがやや弱いんじゃないか。

*2:【追記】憲法と女性の権利の問題に関しては、現在まさに第二十四条【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】の改正圧力をめぐってクリティカルだし、大塚英志もこれを9条に匹敵するくらいの評価をしていた、と記憶する。後に触れます。

*3:しりあがり寿の言葉。「でもって何より大切なのはもう二度と、「天皇憲法だから」とか「占領軍に押しつけられたから」とか、そーゆー言い訳をはさむ余地がないよー、自分たちで納得して作ることだと思います」。

*4:鼎談の中では、日本国憲法が外国語から翻訳されたものである点が注目されている。例えば池澤さんによる「国民/people」のズレの洞察は、その翻訳の過程からもたらされた。もう一つ大事なポイントがある。それは、池澤さんが、憲法の文面を「子どもでもわかる」ように、子どもへ向けて「翻訳」した、ということだって思った。大塚さんが中高生に向けた憲法私案創作の「問いかけ」も、これと関わる。この「子どもでもわかる文章を書く」という志を、なめちゃいけない。ここには何か本質的な問いがある。68人アンケートで、9条の他に大切と思う点は?という問いに、かなりの人が「教育」と答えているのも、気になった。