『不登校は終わらない』を読む前の、助走ノート



 貴戸理恵さんの『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は、発売直後に貴戸さんの知り合いだという知人から買っていたけど、これまで読んでいなかった。また本書をめぐっていくつか論争が生じていることは知っていたけど、それも読んでいなかった。
 でも何人かの人が強く推していたので、先ほど下の文章を読んだ。


  常野雄次郎「『不登校は終わらない』は終わらない」(http://d.hatena.ne.jp/toled/20050414


 なるほど。すごくいい文章だって感じた。
 でも肝心の『不登校は終わらない』を読んでいないし、削除を要求する二人の当事者のコメントも、東京シューレの「見解」((http://www.shure.or.jp/info/kenkai.html)も未読だから、はっきりしたことはわからない。そもそもぼくには、不登校の経験がない。さらにいえば、今まで、不登校(者)に積極的な関心を持ってきたこともない*1。だから今はこれらの文章に関して何かを述べる準備が出来ていない(正確には、何かを述べる権利があるのかを見定める準備が出来ていない)。
 ただ、「当事者の言葉」の難しさをめぐって、この「論争」から学ぶべき事柄が沢山ある気がした。まずは、そこを足がかりにしてみたい。


 『不登校は終わらない』を読み始めるその前段階として、この周辺を旋回する上山和樹さんの最近のコメントを、まとめて読んだ。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050415
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050413
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050412
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050411


 まず、次のことを思い出した。
 ぼくは少し前に、斎藤環さんの『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)』を読み、「まえがき」のぶぶんに強い違和感を覚え、躓いた。
それで、以下の文章を書いた。


 最近「格差」「勝ち負け」本がむやみに垂れ流されている、便乗し消費しまくるように。
 ――斎藤さんがそんな皮肉=自覚から「まえがき」を書き起こした点は、さすがに80年代的鋭敏さ(消費行動への没入とイロニー)だ、と認める。また日本における「非社会性への過剰な糾弾/反社会性への寛容」の摘出、あるいは二〇〇四年一〇月に三六歳のひきこもり男性が両親を殺害した事件についてこれは「親殺し」ではなく「心中未遂」であり、しかも問題は「確率的」な次元から高齢化が強いる「構造的」な次元へ地すべりしている、との警鐘など、大切な分析も散見される。
 しかし、斎藤は、《格差》の問題を、「勝ち組」の存在なんて実体のない「幻想」でしかなく、「勝ち組」とは「勝ったと思いこんだ」人に過ぎず、「負け組」とは「負けたと思いこ」んでいるだけで「扉を開ける鍵を彼ら自身が持っているにも関わらず、それを使うことができない」だけだ、と『マトリックス』的な「意識を覚醒させ、めざめよ!」の結論で片付けてしまう。
 しかも、彼らが自分を「負け組」としきりに「思いたがる」のは「自傷的自己愛」にすぎない、と。
 斎藤はこう述べているだけだ――「勝ち組」なんていない、「負け組」もいない、「勝ち組と思いたがる人」と「負け組と思いたがる人」がこの世にはいるだけだ、と。事実彼は言い切る、「一人の勝者もいない戦場で、ひたすら敗走を続ける若者たち」……。
 こうして《格差》の問題はこの世から消える。

 斎藤がイロニカルに描き出す「自傷的自己愛」の持ち主が少なからずいる事実は認めよう。ほとんど格差ともいえない微小な格差、どうでもいい格差にこだわって「自分は不当な差別を受けている」と主張したがる責任転嫁の大好きな人々がいる事実も、認めよう(ぼくにもそれはあったし、ある)。しかし、「自傷的自己愛」の持ち主がいることは、現在の日本に《格差》が全く無いことの証明にはならない。「被害者意識」と「被害者であること」は、全く違う。アマルティア・センが述べているが、開発先進国の内側では、格差の問題は「ない」のではなく、見えにくくなる。巧妙に覆い隠される。ぼくらにとっての真の《格差》とは、敗北の経験の積み重ねの果てにぶち当たる「見えない」壁のようなものだ。その事実の自覚は、決して「被害者意識」――それは簡単に他人への過剰な攻撃性へ転ずる――と同じではない。必要なのは、現実のふくざつさに巻き込まれながら、ニセの心理的な「格差」(わかりやすく人を動員しやすいゆえにひろく消費され流通する)と見えないがどうしようもなく現実的な《格差》を、たえずきちんと見極めていくことではないか。



単純にいって、本書での斎藤の分析には(ニートやひきこもりを構造的に生み出す)経済構造への視点が全くない。彼自身がそれを批判しながら、問題を過度に「心理学化」する。例えば斎藤は、勝ち負けを決める軸を、まずは「コミュニケーション」のスキルに求める。でもそこには、経済的な「交換」のレベル、「労働力を売る」という意味でのコミュニケーションのレベルへの問いがない。
 上山和樹は、数年前から、ひきこもり問題を「心理」から「就労」へと暫定的にシフトした方がいい、と主張している(しかしその先で、ひきこもりの問題が心理/就労では単純に割り切れない、とも述べる)。斎藤は本書で上山のその指摘を紹介する。しかし、「まえがき」では、その認識がきれいに忘れられる。なぜか。斎藤がその認識をほんとうに生活の痛みとして血肉化していないからではないか(ぼくは、玄田さんにはその感覚が、正確には「自分が本当の底辺労働者の苦しみとは無縁だ」という切断の感覚がある、って思う)。
 ……。


 ・・でも、ぼくのこの文章は、何だか核心を全く外している気がして、アップは見送っていた。
 上山さんの以下の「批評」を読み、自分の文章に何が足りないのか、分かった気がした。

 斎藤環氏は、「ひきこもりは『治療』の対象で、ニートは『支援』の対象である」という言い方をしている。『「負けた」教の信者たちニート・ひきこもり社会論』p.244 と先日の発言を参照するに、どうやら斎藤氏は「支援には価値観提示が入るが、治療にはそれがない」と考えているらしい。
 しかし実は斎藤氏は、≪治療≫という単語の使用において最も価値観的に糾弾を受けている。(略)「社会に復帰すべきだ」というその考え方自体が価値選択だといえる。(私が安楽死の話をするのはまさにそのこと。 「生き延びない」という選択肢もある。)
 貴戸理恵氏が「明るい不登校イデオロギーを批判するのは、「明るくなれず暗いままに終わる不登校」を示唆しているが、私は斎藤環氏の「治療」概念も同じ懸念文脈にあると考える。しかし斎藤氏には、「生き延びるべき」がイコール価値選択であるという自覚がないのではないか。(略)そこに決定的なすれ違いがあるように感じる。
 「治療選択自体が価値観的選択だ」 「治療への誘導は価値観提示だ」というところで、斎藤環氏にもう少し言説生産していただきたいと思うのだが、いかがだろうか。

 しかし、実は「この世で生き延びようとする」という価値選択自体が、雇用環境や実存の熱情と根深く相関するのではないか。斎藤氏は「生き延びる」という選択肢を自明にするので(医師としては当然といえる)、その延命選択と濃厚な関係にあるはずの「雇用環境の厳しさ」や「熱情の困難さ」が問いにくいのではないか。そこの部分は、斎藤氏は「惰性」という言葉で乗り切っているように思われる。(氏の「生きる動機づけ」は「惰性と忙しさ」だという。)



 ぼくの文章は、斎藤さんの分析に「経済・雇用の視点がない」ことへの単なる違和感で終ってしまっているが、上山さんの分析は、「斎藤さんの分析になぜ経済・雇用の視点がないか」を遡及的に、分析的にえぐっている。
 この「批評」は、斎藤さんの急所を、間違いなく射抜いている。そこには「治療」というアクションの中立性を装った「価値判断」(治療するべきだ)が実はあり、さらにそれは「生き延びるべきだ」という根底的な「価値判断」を前提としている、斎藤さんの分析にはそのことへの二重の「無自覚」がある、と。もちろん、斎藤さんはそれをも「あえて」そうしたのだ、と主張するだろう。でも、人はそんなに何もかもを「あえて」行うことはできない。「あえて」何かを信じているだけの気でいる人間が不可避に、手もなく「どうしようもなく」=ベタの盲目性に絡めとられていく光景、ぼくらは何度もそれを目にしてきた。今後も目にするだろうし、自分がその渦中にいる事実をも沢山の出血と共に思い知らされるだろう。ぼくはもちろん、このことを、たんに「当事者の真実の声が支援者の欺瞞を批判する」とも考えない。


 実際、上山さんは、何よりも《「当事者」は「絶対的弱者」だから「何を言ってもいい」》《暴力を被った人間は他人やマジョリティに何をしてもいい》という自己価値化を、慎重に拒んでいる、と見える。「当事者主権」とは、当り前だけど、「当事者の主張が常に正しい」という意味じゃない。むしろ難しさはその「主権」の自覚から始まる。

 「不登校・ひきこもり問題」の、支援対象としての当事者と、活動主体としての当事者。
 「支援対象当事者」にインタビューを行なうかぎりにおいて、フィールドワークを行なう社会学者は、この当事者の言い分をまずは絶対的に(素材として)尊重しなければならないのだと思う。「内容」ゆえにではなく、「発言者は当事者である」というポジション(属性)ゆえの尊重。
 「活動主体当事者」は、ポジションによってではなく、言動の内容によって、その都度真偽や意義を批判的に検討されるべき。
 シューレの「見解」に寄稿した2名の当事者は、自他に想定された属性としては前者のポジションにいながら、発言は政治的に機能しており、言動はすでに「活動主体」レベルにある。 貴戸理恵氏は、自覚的に「活動主体当事者」として発言を試みたわけだが、シューレからは、「(ニーズを抱える)支援対象当事者」とは見なされていないらしい(徹底的糾弾の対象になっている)。
 ≪当事者学≫においては、「当事者の語り」が尊重されるのだが、一人一人の当事者は、「支援対象当事者」であると同時に、多かれ少なかれ「活動主体当事者」でもある。
「支援対象」としても、「活動主体」としても、当事者同士の主張見解が一致するとは限らない。



 これは「強者の論理」じゃない。いや時にこの言葉が、強者の論理に反転してしまう危うさはある。本当に生存の水準でぼろぼろに打ちのめされたひとを、そのぎりぎりの支離滅裂に引き裂かれた言葉を、「君は被害者意識に塗れている」「君の主張は矛盾に満ちている」と二重に撃つ時などがそれだ*2。でも少なくとも上山さんの場合、この言葉は、例えば次のようなぎりぎりの感覚の中で刻まれるのだ――

 「不登校」の話を20年間スルーしてきた。「登校拒否」で少し見ただけ。
 不登校に関連する話というのは、独特の事情を持った≪傷≫の話ではないだろうか。

 貴戸理恵氏の本を読もうとして、全身が熱くなり、息が乱れ、メガネが曇った。 思い出したくない何かに触れる、記憶がダバダバ出てきて収拾がつかなくなる話題。 何か、おぞましい事情があるのだ、あの「学校に行けない」周辺には。
 「その事情はどういうものか?」という問いは、(まさに貴戸氏が書いているとおり、)うかつにするのは暴力。 それをそれ自体として問うても、回答しようとする作業自体が自傷(の形を取った他傷)行為にしかならない。 僕はこの問いを封印し、「生き延びるための対策案」の析出に議論を限定したかもしれない。

 信仰の世界に安住できる/しようとする人と、自分の内側に抱えた狂暴な傷のような疑惑が猛威をふるい、「約束の地」に安住することがどうしても出来ず、その王国を食い破る「言葉の酵母」にならざるを得ない人と。(僕は明らかに後者だ。)
 「傷に取り組む、傷そのもののような知性」なのか、「傷を優しく包み込む物語」なのか。前者にとって後者は欺瞞と抑圧であり、後者にとって前者は傷そのものとなる。



 ・・なんのまとまりもなくぐずぐずになってしまったけど、
 ぼくはフリーターという「問題」(フリーターは終らない!)の文脈で「当事者性」とは何か、と考えている。
 ぼくはこの問題を本当に深く煮詰めないまま、無思慮に言葉を紡いで来た気がする。
同時に、ぼくは、「何故じぶんは不登校にならないですんだのか」と問うどころか、「何故じぶんは不登校の問題に関心さえよせないですんだのか」と問うことすらしてこなかった(ひきこもり者の人生にはあんなに関心があるのに)。変な罪責主義(?)じゃなく、素朴なところでこのことはかなり大切な気がする。それは自分がフリーター問題を考える時に「学校」の問題を常に軽く見ていることにつながる。さて、そんなことをアタマに置きつつ、貴戸さんの本をまずはひもといてみよう。*3

*1:他方で、ひきこもりへの強い関心や共感や違和感はあるのに、何故だろう?――この欲望の盲点には、何かがある気がする

*2:常野さんの言葉――《about-hさんは4月11日のエントリーで、二人が出版以前のチェックでは削除を要求していなかったこと*1を指摘しています。それが今になって抗議するのはたしかに不可解なことに見えるかもしれません。しかしそう感じるとしたら、それは「強者の論理」であると思います。これは、セクハラの被害者が加害者を告発することの困難を思えば明らかでしょう。いみじくも貴戸さんが『不登校は終わらない―「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』の中で論じているように、調査する側とされる側の間には圧倒的な権力の非対称性が存在します。そういう中で、弱い者が異議を申し立てるのは容易ではないと考えるべきでしょう。そうである以上、被調査者がどのタイミングで抗議するか、誰と一緒に抗議するかによって、その声の正当性が損ねられることがあってはならないはずです》。

*3:付言だけれど、常野さんの次の箇所だけには、少しの賛成もできない。《「フェアに互いの立場を尊重して」などというのはブルジョア評論家の言い草です。有効な政治を志向するのであれば、「つぶすべき相手はいかなる手段を用いてもつぶす」という全体主義的態度をとることを恐れるべきではありません。》「フェアに互いの立場を尊重して」が時に傲慢な押し付けであること、「フェアプレーにはまだ早い」ことは本当だ。確実に「つぶすべき」相手、というか、選択の余地などなく、完璧につぶさない限り何度も何度も自分に襲いかかって来る執拗な《敵対者》はいる。たたかうべき相手、迎撃する相手を自分の意志で選びうる人、避けうる人は、やはり確かに幸いなんだろう・・。でも、だから「つぶすべき相手はいかなる手段を用いてもつぶ」していい、ということにはならない。「いかなる手段を用いて」もいい、ということにはならない。フェアを気取る「ブルジョア評論家」にも、「敵」を「つぶす」ためには「いかなる手段を用いても」いいと思い込む「全体主義」者にも、ぼくはくみしない。そこから始める。