エレニの旅

エレニの旅 [DVD]

エレニの旅 [DVD]

 ある側面についてだけ、『エレニの旅』の感想を・・。最後のエレニの絶唱がぐるぐると残響し、トータルには考えられないけど(論じきる力も無い)。


 ……エレニという儚げで頼りのない女性(「20世紀」を丸ごと経験したアンゲロプロスの母親がイメージの核にあるという)を中軸におく『エレニの旅』では*1、エレニたちは、世界の流れにひたすら受動的に押し流され、翻弄され、生れながらの難民として、各地をよるべなく転々とし続けることができるだけで、そしてその難民の集団内部にも不和や陰惨な排除の力学があってエレニたちはそこからも逃げ出さざるをえず、人々はひたすら無力で、その足取りにも奇妙に生気がないのだった(『旅芸人の記録』のような生々しい疲労の印象もない)。
そこには70年代の現代史三部作のような強い政治・歴史性を帯びた強度(歴史のわけのわからなさ)も、90年代の三部作のような孤独な亡命者風知識人の内面性もすでになく*2、ひたすら周囲の世界の流れに押し流され続ける人々の姿は、政治的な難民の集団というよりは、神話的な(旧約聖書的な?)離脱者のイメージの中に溶けて消えかけている・・。特に終盤、物語が神話の次元から歴史(戦争)の次元へとシフトしていくと、エレニを畳み掛けるようにむざんな悲劇が襲って、アンゲロプロスとしてはかなり通俗的で情に訴える描き方をするんだけど、それらも「もはや叙情を恐れない」とばかりに凄みを帯びている。でも、この徹底した受動性と痛み、わけはわからないが押し流され続けていくこの感触が、ぼくらが直面していくだろう《歴史》の実質なのかな、ともちょっとだけ思った。
ぼくのファーストインプレッションでは、この映画が描くものは「20世紀」じゃなく、今後向き合うべき《未来》に属するって感じた。


 息子ヨルゴスの死体を見たエレニは、息も絶え絶えの状態で老婆に小屋へ運ばれ、うわごとの中で、自分の人生について長い(呪文みたいに繰り返しの多い)独白をする。
 投獄され各国の牢をわけもわからず転々と移動させられ続けたエレニは、看守が看守であることをその「制服」でしか見分ける術がなく、しかしその制服を着た看守がどこの国の看守なのか、また本当のところ自分がどんな罪状なのかもよくわからず、さらにいえば敵国と味方、対外的戦争と内戦、政府軍と反乱軍の区別もよくわからない(実際、夫は遠く沖縄でアメリカ軍人として、息子ヤニスはギリシア兵として、息子ヨルゴスは反乱軍の兵士として、各々が別の軍隊で死ぬ!)。ただ「制服を着た看守」が自分を閉じ込め、過酷な状況が今後も続く、それが生々しくわかる(わかった)だけだ――その状況が過ぎて、よくはわからないがとにかく釈放された時、うわごとの中ではじめてその苦しみを吐くことが出来た、その位に。どの国のどの監獄に閉じ込められようと、水がなく、石鹸がない、息子に手紙を書く紙がない、という自分を強いる状況に変りはない(変りはなかった・・)。しかも、映画の中で饒舌や感情の激しい起伏のなかったエレニは、それらをうわごととしてしか「告白」できない。
「3さいのとき川辺で泣いていた」、その後も「ずっと難民」だったエレニは、何がなんだかわからないまま周りの世界に押し流され、押し流された難民の集団の中からも石を投げられ押し出され、かろうじて家族への愛を自分のものとして見出し、世界のありのままの残酷さへの小さいが地に足のついた抵抗原理として独力で掴むが、終盤部、神話から歴史へと色彩を変えていく世界の流れは、その家族のささやかさをこそ、彼女から容赦なく、意味も無意味もなく、たんなる自然の運行のように淡々と奪い去る。しかも、エレニは、愛する家族の死体とすら、常に隔てられてしまう(遠く沖縄で死んだ夫についてはその手紙が死後数年して釈放されたエレニの元に届くだけだし、戦場で死んだヤニスの死体は河の中ほどの中洲に横たわりエレニは川辺で泣き崩れることしかできず、ヨルゴスの死体も、会いに行くためには監視の目をくぐらねばならず、丘を越えた先にはさらに深い水が彼女の行く手を妨害するのだった)。『永遠と一日』の最後の場面のような内面性や過去の思い出への退却すらそこでは許されていず、ひたすら即物的に哀切なだけで、エレニは、水と空に向けて絶唱することしか出来ない。


 政府軍と反乱軍に分かれたヤニスとヨルゴスが、「母さんが死んだ、牢でぼろぼろになって」と抱き合って泣く場面がある。
 一瞬、彼らは誤報を信じてしまったの?、と思うんだけど、後で振り返ってみると、この言葉は真実で、この時点でエレニは本当に死んでいたのでは?とちょっと思った。エレニは最後、水没したニューオデッサの村の、廃屋と化した自分の家で、ヨルゴスの死体と直面するのだけど、そもそもヨルゴスの死体が腐敗もしていない状態でかつての故郷の自室に横たわっている状況は現実とは考えにくく、この場面は一つの「夢」なのかも知れない、と。
 その意味でもエレニの周りには「もう誰もいない」のかも知れない。

*1:女性が作品の中心に置かれるのは1970年の『再現』以来だという。

*2:孤独に耐え切れずエレニを妻にしようとし、エレニが逃げ出すと各地を執拗に追い回すエレニの父親の方に、この亡命知識人風の内面性は封じ込められているのかも知れない。