「当事者主権」の原点

 上山和樹さんの「当事者批評」が、蛇行を重ねた先で、おそろしいところ(でも何かを真摯に考える人が常に立ち返ってくるありふれた原点)へと足を踏み出している。

 個人的に、「当事者」という言葉への違和感が強くなっている。というか、『「ひきこもり」だった僕から』などという著書のある私は、まさしくこの問題の当事者なのだが。
 「当事者」という言葉は、ある社会的尊重のために必要だと思うが、それが菊の紋所のように無条件的権威として機能することに奇妙さを感じる。それは実は、「相手にされない」ことの裏返しではないか。


 「当事者が批評する」と同時に、「当事者を批評する」必要があると思う。≪当事者主権≫というのは、「意思決定の権利」であると同時に、「批評的に批判される権利」でもあると思うのだが。
 そこで発揮されるべき「批評的な厳しさ」は、権威主義的な説教(パターナリズム)とは違ったものになると思うのだが、どうだろうか。(http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050508



 知人の障害者福祉施設の施設長さんと「介護労働者の既得権益」に関して話していた時*1、その方が、「本当をいえばわたしは障害者の親の会の既得権益について疑念を言いたい」と述べ、さらにその先で、「さらに本当をいえば、障害当事者の既得権益についても疑念を言いたい」と、苦しげに述べていた。でも、障害者福祉が「聖域」ではなく、むしろ生々しい政治的領域である以上、当然それはある。あるのだけれど、文脈や関係性の中で、この「事実」の指摘が時に暴力的に機能する可能性が高いのだ。そのことに、よかれ悪しかれ「健常者」の特権性をさんざん享受している人間(勿論杉田を含む)は、ものすごく慎重でなければ、最悪の暴力を行使することになる。ぼくは「誰もが何かの当事者だ」という正しすぎる一般論は、かえって何かを見えなくするから、あまり好きじゃない。


 自分のフリーター論は(学者や研究者が好き勝手に切り刻む「フリーター研究」ではなく)日々の生活から不可避に濾過されて来る「フリーター当事者」の言葉であると同時に、自分達の足場の検証としての「フリーター批判」としても書いたつもりだが、まだまだ後者の自己検証の面で甘さがあり、色々「フリーター」に都合のいいことを書いた気がする。「権威主義的な説教(パターナリズム)」とは異質な、そこに踏み込みかつこれを超える「批評的な厳しさ」の輝きが、やはりあるはずなんだって素朴に思った*2。ぼくは「当事者の言葉」(安易に否定されたり肯定されたりする)ではなく、「《現場》の言葉」について考えている。

*1:同じ障害者福祉に携わる介護労働者でも、その市町村の中で強い権益のある法人の職員は、殆ど公務員と同じ扱いを受けている。ある入所施設の職員に聞いたのだが、ざっくりといって、その施設の偉い人=年収1500万円、そこそこ偉い人=年収800万円、そこそこの責任者=年収500万円、だそうだ。もちろん正確な数字ではない。誤解も生むかも知れない。でも、こういう現実について、介護労働者はどこかでみなきちんと考えた方がいいのではないか。「天下り」の問題を抜きに、日本の福祉を語ることは不可能だ、特に地方に行くほどに、と社会福祉士会の人が述べていたのを思い出す。ボラ的に関われるポジションにいる人間/一部の能力の高い人間だけがこの仕事に継続的に就ける、「そこそこの」能力を持つ人がいられない、という状況にスピリット的に違和感があるなら。

*2:ただ、最近ぼくは「自己批判」という言葉に違和があり、「自己検証」と呼ぶ。「自己批判」は、何か自分を規律訓練する自分を倫理的に輝かせようとする含みがあるし、また容易に激しい他者批判=恫喝に反転する。他者の批判がまずいと言っているのではない。自己批判と他者批判が絡み合いながらインフレ化し、かつ後者だけが燃えさかっていく循環がまずいだけだ。しかし、さらにその上で、北田暁大さんの本で書かれていたが(以下、正確な引用ではない)、連合赤軍事件に象徴される「左翼」的主体について、「自己批判できるのは批判できるだけの余裕のあるエリート男性だけだ、そんな余裕すら与えられていないほどぼろぼろな人々は必ずいる」云々という言葉を思い出す。ぼくは後者の現実も必ずあると生存に賭けて確信する。ただ、その境界線は、確かに見極めるのが難しい。