ひきこもり原理論のための助走ノート

 ひきこもりの人々とその家族の未来に関する(一つの)問題点の所在を明確にしたい、と願って書いた。気持は切迫しています。
 無知ゆえの誤解や偏向もあれこれ含まれるかも知れません。色々ご指摘下さい。




 最近よく聞くけど、ひきこもりにもいくつかの段階がある。


 (A)完全に自室に閉じこもった状態
 (B)何人かの親密な友人がいる、またはたまり場・自助グループなどに参加のできる状態
 (C)継続的な形で経済的に自立した状態(またはそれに類する生活条件を獲得した状態)


 上山和樹さんによると、(A)から(B)への移行に成功する可能性はかなり高い。
 斎藤環は、ひきこもりの「治療」は、本人に何人か親密な友人ができた時点で終る、と言っている。
 対し上山さんは、(B)の段階でも「ひきこもり」が終った実感は本人に訪れない、と強調する(あるいは石川良子「〈ひきこもり〉における「居場所」の二義性」http://www.geocities.jp/ryoryo_is/index.html参照)。(B)の場合でもひきこもりはまだ続いている。上山さんが強調するのは、(B)から(C)へ移行すること、継続的に仕事を続ける状態をかちとること、これが本当に絶望的に困難、ということだ。


 (B)→(C)への支援としては、例えば以下が考えられる*1


 (1)就労支援(教育、職業訓練など)
 (2)医療分野(統合失調症社会不安障害など)
 (3)公的福祉分野(生活保護?)
 (4)家族・親戚による保護(ある程度裕福な財産を子に残せる家庭の場合)


 「純粋なひきこもり像」があるわけではない。濃淡やグラデーションがある。それら全てを含めて「ひきこもり」とぼんやりと称される。理解がみなそれぞれ違うから、議論が噛みあわなかったり、「偽ヒキ問題」(お前はニセモノのひきこもりだ/わたしが本当のひきこもりだ/の悪循環)等も生じる。これはどの分野でも言える。フリーターでもそう。
 その上でこう考える。
 ひきこもりの人々の中のどれ位かの部分は、個々人の資質や状況に応じて、(1)〜(4)のいずれかの選択肢を選び、「社会」に軟着陸していくだろう。でも、それらのいずれにも当てはまらない人々は、どうなる?このことをもう考えていいんじゃないか。どんな領域にもレアケース、特例はある。でもひきこもりの場合、それはレアケースにとどまらない気がする。「そういうヒトビト」がある一定の規模をつくるんじゃないか。


 はじめから「問い」をたどり直したい。


 ひきこもりの人は、対人不安の感覚が強いと言われる。
 たとえば次の引用。

フリーターとニートとひきこもりは一体何が違うんだということを僕もよく聞かれるんですけれども、一番のキーポイントは対人不安の状態が全然違う。簡単に言えば、ひきこもりというのは対人不安が強過ぎて家族ぐらいしかしゃべれない。ニートの若者達はもう少し軽く、コンビニの店員とはしゃべれるとか、他に本屋さんの店員とはしゃべれるとか、もしくは近所のおばちゃんと軽く挨拶ぐらいは交わせるというような若者です。それを超えると、一応アルバイトはできるという意味でフリーターということにしてあるんですけれども、相談の内容にしても、ひきこもりの方は、心の悩みとかが多く、仕事の話は初めはほとんど出てきません。いかに自分が辛かったか、いじめに遭いましたとか、あとはどうやって心の闇から抜けていくかというような、あくまでも心、心の問題であって、労働の話というのはほとんど聞きません。ただ、今の日本社会で働く価値がないということを力説する方もいるんですけれども、基本的にそれは働くということ以外の問題で、それを隠れ蓑にしゃべっているような感じですので、基本的にはひきこもりの方というのは心の相談がほとんどです。
http://www8.cao.go.jp/youth/suisin/jiritu/03/gijiroku03.html (04/10/19,工藤啓)

 工藤さんのこの判断(ひきこもり=心の問題)には、根本的な疑問点はある。その上で、ひきこもりのヒトビトの対人不安の深さは、単なる経験不足の面もあるものの、やっぱりどうもそれだけとは思われない。もちろん、フリーター/ニートにも、対人不安の感覚がないとは言えない。でもむしろそれは失業/転職/立場の弱さ/生活不安などから蓄積されていく「自分への自信の無さ」「絶望感」に多くが由来するもので(香山リカ『就職は怖い』など)、一般論のレベルで考えると、やはりひきこもり者の方が相対的に対人不安の感覚が強いのではないか。そんな風に思う。
 実際、よく指摘されるけれどもひきこもりは時には統合失調症と見極めがたいケースもあり、統合失調症の場合は初期の診断が大事、と言われる(斎藤環ISBN:4569621147)。単純に「ひきこもれ」「家から追い出せ」と述べるのはとても危うい。


 ぼくは、正直、ひきこもり者の一定部分は、「就労」するのが今後も無理だ、と感じる。
 全てだとは思わない。いろんな就労支援や職業訓練アウトリーチの試みはもちろん大事だし、訓練を重ねることで実際に就労へ移行ができる人も多いだろうと思うし、それはやはり不可欠だと思うが(例えば→http://www.nola1.com/)、それだけではやはり自ずと限界がある。そこから零れ落ちる人々が必ず残る。どんな試みにもそこで対応し包摂し切れない残余の部分は残るから、それは当り前のことだから、ぼくらは、迂回とジグザグを重ねつつ、ていねいに一つ一つの現実に対応していく他にない。
 例えば、フリーター問題(そんな問題があるとして)は、全てのフリーター型労働者が一定水準の賃金と待遇をクリアした「正職員」へレベルアップすれば社会的に「解決」され消滅するとも言えるし、事実ネオリベラルなフリーター批判はあたかも完全雇用が可能であるかのような口吻を見せるが、社会に「失業率」という絶対的な条件(パイの不足)がある限り、現実的にはそれは全く無理であり*2、必ず正職員になれない人々が残り続けるし、その限りで、底辺・周辺労働層の人々を強いる人生の問題は――少なくとも、社会が今のままであるなら――残り続ける。


 ひきこもり者の長期的な未来を考えていくと、問題の素朴なシフトがどこかで必要で、「いかに働かせるか」ではなく、「働かない(働けない)ことを条件とし、いかに長期的に生きていくか」の問題を真剣に考え続けないとダメなのかも知れない・・・。
 ダメなんじゃないだろうか?


 ではどうする。
 医療・福祉分野での対応や生活保護の認定が降りるのも、いまの社会保障の流れを見ると、ごく一部分にとどまる気がする。老人福祉や障害者福祉もまた明確に「市場原理+家族責任」を打ち出しているから。障害や生保の認定自体が降りにくくなっているし、今後もなっていく。さらに「ニート」という言葉が急速に熱病的に蔓延してからは、ひきこもりも(心の闇や精神保健福祉ではなく)「就労」の問題に特化されつつある。特化された上で批判されている。私的な心や欲求の問題を語ることさえ君達には贅沢だ、とされる。
 そして、現状の経済的保護者である「親」は、時間の経過と共に亡くなる。当事者の高齢化も進んでいる。
 当人の老後を保障するだけの貯金や住居を相続できる人もいるだろうが(人生をひきこもりのまま終える)、全員がそうではないだろうし、それが問題の根本的な解決とも思われない。それでは「生れ」(親の裕福さ)という偶然的条件に人の人生が左右されてしまう。(それとも、実際はかなりの人が、親の遺産を相続する形で、最後まで人生をまっとうできるのだろうか?どうなんだろうか?)
 かといって、ベーシックインカムのような無差別の公的保障制度が、現在の日本に導入可能だとは現実的には考えにくい。少なくとも、数十年単位では考えられもしない。また当面、生活保護の基準がゆるくなるとも思われない。


 すると、それらの現状の「保護」という条件が無くなったら、かれらの一定部分を待ち受けているのは、やはり「野宿者化」か「餓死」か「親子心中」(自殺)だろう・・。


 冷徹に現実をみれば、ネオリベラル的にはこの「結論」しかない。
 働いて自活できる能力がないなら、君達は死ね、自己責任を甘受しろ、自業自得だろ、と。
 でも、もしもそれを自明の「結論」と考えないならば、仕方ないと考えないのであれば、別の道筋が必要なことにはやはりなる。
 そろそろこのことを真剣に考える時に来ている。ひきこもり当事者も、その親も、高齢化している。おいつめられている。*3ではどうするか。

*1:支援とは何か?というラディカルな問いは今はおく。

*2:日本の「失業者」のカウントの仕方の問題がある。さらに「完全雇用」ならぬ「全部雇用」の問題もある。

*3:「最大の敵が親」ならば、「最大の敵は子供」でもあるのだろうか?ひきこもり者とその親の人生の幸福が一致するとは限らない。当り前のようだけれど、このことが忘れられる。障害者の自立生活運動の歴史でもこのことは長く主張されて来た。「最大の敵は親」とさえ主張された。「ひきこもり者の未来」を考えるだけでなく、「ひきこもり者の親の未来」をも真剣に考える必要がある。前者の幸福だけではなく、後者の幸福をも真剣に考える必要がある――両者の幸福は決して一致しない、という前提を認めた上で。共依存は、親子の心理的な癒着だけでは絶対になく、社会的・世間圧力的にそれを強いている。その先で解除の道が探られる。