生田武志さんの書評

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■2005/10/20■ 杉田俊介「フリーターにとって『自由』とは何か」

 杉田俊介「フリーターにとって『自由』とは何か」(人文書院・10月25日発行)を読んだ。
 「フリーター的で、長期的な安定や保障とはまったく縁遠い生活の中でもがいている」者の視点から、同じ立場の者へと呼びかけていることが明確な文章。そうした主体によるこれだけの質・量の内容を持つフリーター論はまったく見たことがない。その点だけでも、社会的に大きな意義がある。
 このフリーター論は、多くの若者が不安定就労を強いられ、最終的に社会的な排除へと押し流されている現状を繰り返し確認し、かつその「排除」自身が隠蔽されていることを告発する。「機会均等が本当はありえない所でそれを前提にし、他人に押し付けることは、より弱い立場におかれた人間を二重に――現実的な排除と、その排除という事実自体の排除――抑圧する」。
 そして、この「抑圧」「隠蔽」は、強い立場にある者の既得権のためであると同時に、「われわれ」自身の弱さのためでもあるのではないかと言う。つまり、われわれ自身が現実を直視することを回避する結果として、この隠蔽はもたらされているのではないか、という強い自省がここでは常に働いている。「何もかもを個人の努力の結果(自己責任)に期するのは無理だ。いや、『社会・環境がすべて悪い』と責任を転嫁したいのではない。おそらく個人の真の〈責任〉の所在は、社会構造・制度のラディカルな分析と平行して、はじめて公共的に問われうる――そう考えてみたい」。これは、おそらく社会と自己の責任を問う唯一の道である。
 しかも、本書の焦点の一つは、「フリーター問題」という形で扱われると見失われてしまうものにある。つまり、「フリーターと正社員」「若年労働者と中高年世代の労働者」という対立として考えるのではなく、そうした「偽の問題」を生み出す構造こそが問題なのだ。「勝ち取りたいのは、『食い逃げ世代』と『フリーター世代』、前者と後者を同時に――でも違った形で――閉じこめている社会的・歴史的な〈構造〉の全体を批判的に捉え、こわし、これを真の未来、『別の』未来へと化学変化=分岐させていくための、具体的なオルタナティヴの提案や制度論であり、またそれを根源から支える個々人の倫理感覚だ」。
 この視点から、女性の派遣労働、主婦のパート労働、野宿者問題、中高年労働者との関係、家族問題との関係などがフリーター問題との構造的関連から問い直されていく。そこから若年労働をめぐる社会構造の網の目が浮き彫りにされていくのだが、こうした論点の取り上げ方は、読んでいて「目の付け所がいい」と感じさせられる。読者は、著者の論考を読み進めながら、フリーターという不安定就労問題が(リバタリアニズムを一つの焦点とする)社会権力の今日的変容と深く絡み合っていることを見ることになるだろう。
 しかし、この本は上で言う「具体的なオルタナティヴの提案や制度論」「それを根源から支える個々人の倫理感覚」について語り得ただろうか。具体的な一つの方向は、「ぼくらは一生フリーターでも生きていける」と明言されているが、それを可能にする新たな社会的構造についての理論展開はあまりされていない。われわれが何らかの当事者の言葉に興味を持つとすれば、「当事者としての実感」「それを根本とした分析」(ひきこもりの場合、上山和樹の「ひきこもりだった僕から」のように)、更に「現実への視点の変更をなしうるアイデアの提示」ではないだろうか。この本では、「当事者としての実感」「それを根本とした分析」において優れているが、「変更をなしうるアイデアの提示」の多くは課題として残されている。
 しかし、それは読者への「具体的にどうするか、それを我々自身が考えていこう」という呼びかけとして提示されているのかもしれない。この本の最終部分は、「生活の多元的な平等のために―分配の原理論ノート」という分配をめぐる他者論、そして「未来―Kさんへの手紙」という読者への手紙にまとめられている。ギリギリの地点での原理的な「他者との関係」(そして読者へのよびかけ)が、フリーターにとっての「自由」とは何か、という問いの最も根源にある条件として提示されている。それをどのように展開し現実化できるかということは、この社会にいるわれわれ自身がこの本を一つのきっかけとして考えていかなければならないのだろう。
 最初に言ったように、行政や学者といういわば高みの立場からのフリーター論はあっても、不安定就労の立場にある若者からのフリーター論は今まであまり存在しなかった。この本は、同じ立場にある者たちへ向かって、「これを自分自身の問題として考えよう、そして女性労働、日雇労働という様々な立場の人々と共通の問題を持つ(「分有する」)ことを認識し、その人々とつながっていこう」と呼びかけている。こうした呼びかけは、今ぜひともなされなければならなかった。フリーターの労働組合である「首都圏青年ユニオン」がまさにそうした活動を行なおうとしているが、本書もこうした社会的潮流の理論的方向の一つを生み出すものだと言えるだろう。この「フリーター」にとって『自由』とは何か」は、その意味においても多くの人に読まれるべき意義を持っている。
 実は、この杉田さんとは本書の初稿段階(やそれ以前のフリーター論)から意見を交換してきたので、完全に客観的には読めないところがある。ぼく自身の文章からの引用が幾つかある他、例えば「これはぼくが言ったことが元になってるかな」と感じる箇所が幾つかあったりする(何年も意見交換していると、どちらが先に言ったかなどというのはあまり意味がなくなってしまう)。
 ぼく自身はフリーター論として「フリーターは野宿生活化する?」を2001年に書き、さらにかなり長い「フリーター・ひきこもり・ホームレス」を今年書き終えた。これ(全文あるいは一部)は、杉田さんたち何人かと「若年労働問題」についての共著として出す予定でいる。