(続)



フリーターにとって「自由」とは何か

フリーターにとって「自由」とは何か



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『フリーターにとって「自由」とは何か』目次


フリーターズ・フリーへ向けて


第Ⅰ部 現在へ――現状分析論


【はじめに】誰とたたかうべきか?――ささやかだけれど、譲れない信の問題
Ⅰ―1
☆フリーターとは誰か?
☆フリーターは階層である?
ニートとは誰か?
☆フリーターは何の当事者なのか?
Ⅰ―2
☆政府や企業は、フリーター的労働層を便利に使い捨てようとしてきたし、今後もそうする
派遣労働者はフリーターの典型である?
☆正職員になりたいけど、なれない
☆世界的な動向として、若年層が貧困化している
Ⅰ―3
☆フリーターはやる気がない?
☆仕事格差が存在する!
☆フリーターvs若年正職員?!
☆失業率という条件
Ⅰ―4
☆フリーターになりやすい/出られない人々の層がある
☆日本型雇用システム(とその家族像)は当り前か?
☆女性労働者はすべからく不安定労働層である?
☆女性労働者=依存労働者?
☆女性労働者vs女性労働者?
Ⅰ―5
☆フリー・エージェントとは誰か?
☆勝ち組フリー労働者vs負け組フリーター?
☆フリーターとセキュリティ型権力・Ⅰ
☆フリーターとセキュリティ型権力・Ⅱ
☆フリーターとセキュリティ型権力・Ⅲ
Ⅰ―6
☆労働者にとって自由とは何か?(原点)
☆働くの?/遊ぶの?
☆弱者と敗者、あるいはそこからこぼれおちるもの
☆フリーターの自己責任?
Ⅰ―7
☆フリーターは誰を収奪しているのか?
☆先進国にとって貧困とは何か?
☆遠い他者と近い他者、あるいはただの他者
☆〈資本-国家-国民〉という怪物
☆フリーターの数は今後も増大する(だろう)
Ⅰ―8
☆フリーターは野宿生活者化する?
☆パラサイトと世代批判
☆問いの転回――真の普遍性へ
☆《構造》から遺棄されるもの――〈子ども〉と〈弱者〉
☆フリーターと年金問題
☆まず、何をすべきだろう?
Ⅰ―9
☆なにもないというエッセンス――存在する権利?
☆どうしようもなさ、勇気、怒り


【少し長い付論】生活の多元的な平等のために――分配の原理論ノート


第Ⅱ部 未来へ――Kさんへの手紙


第Ⅲ部 フリーターに関する20のテーゼ



引用・参考文献一覧
あとがき

あ と が き


 フリーター論はたくさん書店やウェブ上で見かけるようになりました。でも、フリーター当事者のねじれた生活《現場》に本当に根ざした言葉は、奇妙に少ない気がしました――学者や識者が、高みから山ほど「フリーター」を分析し、好き勝手に切り刻んでいるけれど。
 もちろん、当事者が無条件に正しいわけではありません。当事者ゆえに見えなくなるブラインドも無数にある。それでも、当事者たちの持続的な生活の中から、泥や糞尿にまみれて醸成される言葉や思考のポテンシャルは確かにあって、それがもう少し雑草的に世にひろがって根を張ってもいい。時代がぼくらに強いる弱さ/空虚/泥濘の底に沈むのがいいとは言えないけれど、この生活の底でもがき続ける日々を通してのみ勝ち取られる何かが、シンプルに、「別の」形でありはしないか。ぼくは蛇行と試行錯誤の最後に、そんなものの価値、差し込むかすかな月明りを、自分の内臓で信じました。


 「フリーター」とくくられる人々は、意識も価値観もバラバラな雑多な群れですが、ぼくは個人的な事情をいうと、その中でも最も過酷なタイプの現実を強いられたフリーターではありません。現状がいかに不安定で苦しくとも(苦しい?)、そのほとんどは、ぼくの人生上の選択ミスと自業自得の産物でしかない。略歴からもわかる。フリーターエリートと批判されても仕方ない。本当にそうなのです。つまり、ぼくはポジションの潤沢な「水増し」を前提に、本書で何かを述べ何かを主張している――まずはその条件(のずれとギャップ)を皆さんにはっきりと伝えておきたいと思いました。
 でもその先で、ぼくはなおその水増しされた水位から顔を出し呼吸し、何かを本音で述べられるのでなければ。くらい水底の岩盤から削り取ってきた自分の「信」の感覚を、現実の側へ投げ返し、盲信とは違う形で貫き通さねば――約三年の間、このささやかなこの文章をのろのろと書き溜めながら、徐々にそんな感覚=生活原理を腹の底に蓄えて来ました。これは私的な問題にとどまらない。ぼくは別に、無限の多様さを含む「フリーター」の代表ではないし(そんなはずがない!)、「フリーター」問題がぼくの人生のすべてを代表するわけでもありません。


 ジェレミー・シーブルックというイギリスの作家・ジャーナリストは、こう書きます。

 女性差別や人種差別に対する反対運動、性的指向の多様性を認知するよう求める運動は、それがどれほど啓発的なものであるとしても、西欧社会が現在置かれている特権的状況にその多くを負っている。このことは、世界で最も搾取され、虐げられた人々、つまり、グローバルな階級構造の底辺に位置している人々が白人以外の女性であるという事実を見逃すことにもなりかねない。貧しい国々では、レズビアンやゲイの置かれた困難な状況についてはまだ議論さえ始められていないのである。(『階級社会』)

 ぼくは、このタイプの言葉の「正しさ」を、純度一○○%で認める。その根拠と、しかしその正しさの先にそれでも沈澱してゆくビミョウなわだかまりに関しては、本論で何点か触れました。
 注意を要しますが、この人の分析は、グローバリズムの中で進んでいく「新たな」階級の問題をターゲットとする。先進国の豊かさを、単純に、第三世界の貧しさの側から――先進国で生きる彼自身の足元を検証せずに!――切り捨てているわけではない。それでも、各種の過酷なマイノリティ層でさえ「先進国」に生れ落ちた事実の蜜と恩恵をたっぷり享受していると彼は言い切るのです。いわんや、マイノリティ層でさえない日本の若年フリーター層においてをや! この転倒の中で彼の言葉は灼熱する。そう考えなければ、苛立たしさをまとう彼の批判の槍は、その熱と炎を冷却させ、ぼくらの急所を鋭くえぐることもなくなる。


 日本型のフリーター労働層の生存スタイルに即して考えたいのは、「親や誰かへの依存を断ち切り、自立を試みるが、現実の濁流に押し流され結果的になかなかそれができない人々」のことでした。あるいは、何とか現在は経済面で自立できていても、重層決定的に流動する状況に何度となく翻弄され、いつでも他者(家族やパートナー)への依存状況へ陥りかねない――将来、野宿生活者化するかも知れない――そんな人々の人生、ごろりと転がる鉱物みたいに、よく似ているけれど一つも同じ形状じゃない…。
 ぼくは、あなたたちが生活の中で強いられたその〈揺れ動き方〉の切実さと重みを、むしろそれだけを、今ははるか微光のように信じます。「正しさ」なんてそれ自体ではちっとも怖くありません。本当に怖いのは、それを含めすべてをのみつくしていく貪婪な何かだから。そんな何かの胸にじかにふれられたなら。そう祈りました。祈りながら、この文章を書いていました。
 弱者救済や同情の話じゃない。そもそも人間には他人を「救う」ことはできない。せいぜい自分をわずかずつマシな人格と境遇に押し上げられるくらいだし、その漸進的努力を通じて、遠く・近くで生きる他人たちの胸元へ間接的に何か素晴らしいものの気配を閃かせ、示しうるくらいだから。


 たとえば……何ヶ月かハローワークに通いネットを駆使し人脈を辿り各社で面接を受けたが落ちまくった。不採用の通知さえ来ない。金も気力も尽き果てた。使い捨て型正社員や日雇や派遣や時給七八○円のコンビニに採用された。藁にすがって働いた。働けば働いたで、灰色の日々の中で「これでいいのか」と不安や陰鬱さが染み出す。暗い何かが自分の中で刻々と鬱血し、澱んでゆく。相変らず貯金はない。あってもわずかだ。働き続けるしかない。時が過ぎる。淡々と年を取っていく。それでも日常の泥濘の中でもがき続ける。そんなあなたたちの話だ、これは。
 一生涯、不安定な身分を脱せられないのか、自分は。なぜか共稼ぎするパートナーも誰も残らなかった(どうせ自業自得なんだろう)。いつ家賃が払えず路頭に迷うんだ。時折聞こえる野宿者の問題も人ごとではまったく考えていない。考えられない。――そういう話ではないのか。自分が悪い、努力が足りない、能力が足りない。そうかもしれない。いや、きっとそうなんだろう。でもよかろうが悪かろうが、自分の魂をすりこぎにし続ける周囲の圧力や屈辱に耐えて、ぼくらは未来へ足を踏み出し、生き続けるしかない。その先でこのどうしようもなさを断ち切っていくしかない。


 ぼくらは、シンプルに「一生ずっとフリーターは可能だ」と主張すべきです。
 そう言い切るための社会条件を一つひとつ模索し、(空想的逃避ではなく)現実の中で勝ち取ってゆくべきです――フリーターこそが真に人間らしい働き方だ、という自己勝利化の幻想からも覚めて。
 なぜ?
 多業種を含み流動性を帯びたフリーター的な不安定労働者たちは、絶対に今後も増え続けるから。独立不羈の能力勝者と、生存維持に支援(サポート)が必要な社会的弱者の狭間で、この世にはそう生き続ける他ない人々の問題、その奇妙な絶望と見えない疵口の問題が、必ず残り続けるから。しかも、自分で選んだ結果とは言い切れず、さまざまな事情や「たまたま」の条件(学歴、性別、親の所得、地域差、障害の有無)から強いられ、そんな人生に隷属し続ける人々の虐げられた生、ブラックホールにのみこまれた生が。
 ぼくは「能力のない人間は遺棄されても死んでも仕方ない」のすべてを絶対に拒絶したい! 


 本書の議論はあちこち枝分かれし、焦りすぎた部分、勉強が足りず練りの不足した部分が山ほどあると思います(特に女性労働/学歴問題/地方格差…の問題に関しては、議論は完全に不十分)。素人独学ゆえの勘違いも無数に含まれるでしょう。出版の幸運を喜びつつも、次第につのる不安と逡巡は、最後まで断ち切れませんでした。ただ、もうそれを「沈黙」の理由にはできない、とも感じました。すでに足を踏み出しました。あとは皆さんの根底的な批判を待ちます。


 第Ⅱ部の冒頭で述べましたが、本書では実践論(オルタナティヴ)には着手できませんでした。ただ、今の仕事の積み重ねから次第に粘土状に形をなしつつあるアイディアが若干あり、方向性はこれしかないかな? と今は感じる。でも、本来の第Ⅱ部にまかれた種子は、文字通り、ぼくが個人的な生活を通して実践し、開花させるしかありません。五年後くらいに始められればと今は漠然と考え、準備を進めています。万事鈍いけれど。


 また今後のフリーター論の展開=網状化に関しては、これも漠然と、いくつかのアイディアがあります。
 いろんなメディアや伝達経路を通し、《フリーター階層問題》を多元的にネットワーク化し、フリーターの生存を「見えるもの」――偏見的な肯定/否定の対象ではなく――にしてゆきたい、私的所有の原理主義に抗し、「別の」対抗原理(平等・分配)を突きつけ続けたい、今は強くそう感じます(当面は生活上の多忙さに追われ、足元をやっつけ仕事(ブリコラージュ)的に固めるのに精一杯で、定期便的かつ状況の核を射抜くタイプの発信がろくにできないけれど)。
 本書のぼくの言葉は、奇妙に灰色で重苦しく響くかも知れません。
 でも特に悲観も楽観もしていないのです。ただ、自分が本当にやるべきことを淡々とやりたいし、やらなきゃと思うし、それくらいしか自分にはできないなと思う。


 このささやかな一冊が、日々の労働生活から来る現在進行形の無数の苦難を、未来へむけてなだれ落ちていく《どうしようもなさ》(helpless)を、皆さんがありきたりの勇気と共に受け入れ、よりよい生活と幸福へ向かって独立独歩で踏み出すための、小さな礎に、いや、そのひとかけらになれたら心から嬉しいのですが…。ナイーブな羞恥と共に、それが今の率直な気持ち。「目的は瓦礫ではなく、瓦礫の中を縫う道なのだ」(ベンヤミン)。
もちろん、このささやかな本を上梓したくらいでぼくの内的な何かが改善されるわけはないし、人生はそんなに簡単なはずがないんだけれど。真の実践の必要は本当はこれからだし、なだれ落ちる現実の渦中で何もかもが一つひとつ積み重ねられて行くでしょう、きっと。


 最後に…(謝辞)