溶け合わない何かを並存させていくこと



 谷保のプールへガイドヘルプ。そのあと毎週日曜夜の入浴介助。ぐったり。


 先日id:lessorさんより「Book Baton」をもらい、何となく気になっていた。この手のお遊びは別に嫌いではない。ただ、以前id:seijotcpさんから「Musical Baton」をもらった時も上手く質問事項に答えられず「アルバム5枚」に変形してみたが(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050625)、今回も「文芸批評」に限ろうと思った(カッテですいません)。音楽バトンと同じくひねりのない正統派。それぞれ本来は「全作品」と言う他ないが、柄谷行人『内省と遡行』、山城むつみ『転形期の思考』、鎌田哲哉『進行中の批評』、小林秀雄ドストエフスキーの作品』、立岩真也『弱くある自由へ』・・。立岩さんの本が入るのは変に見えると思うけど、自分はこの本を「批評原理の本」と読んだ。どれも論じるより、はるか高みとして無限に目指し続ける対象。実力の欠如は当然だが、1流でない人間は1流を真剣に目指し続けようやく2流位の高さに至れるのだ、と信じる。


 ……と、「Book Baton」について考えながら、ふと思った、自分は「批評」と「障害者サポート」を全く交差しない別の領域と無意識に思い込んでいたけど、そうでもないのでは。
書くことだけで生活費を稼ぐためにあえて「売文」を志す。書くことでは食えないから、別の仕事で生活費を稼ぎ、書くことの自由を確保する。それぞれに覚悟のいる生き方だ。でも他に、書くことと働くこと、あるジャンルと別のジャンルを溶け合わないまま並存させ続けていく(その物理的条件を模索しつつ)生活もあるのでは。というかそうする他にない、その持続と蛇行の中から発酵する輝きがあるのでは。ふと、そう思った。


 上山和樹id:ueyamakzk)さんが「震災に関連したことを思い出すことが、大切な気がしている」(http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050708)と「変化の兆し」を述べているのを読み、何かほっとした。
 散々書いたけど「フリーター」がぼくの人生全体を代表するはずはなく、杉田のフリーター批評が「フリーター」全体を代表するはずもない。上山さんと「ひきこもり」にも同じことが当てはまると思う。一人の人間はむすうの属性の束を持ち、いや外界から常に多元帰属性を強いられる。無数の属性が折り重なる交点に、一人の人間の固有性がかすかに輝く。ポテンシャルとして。例えばひきこもりの問題とフリーターの問題が繋がることは見やすいが、ひきこもりの問題と阪神淡路大震災の問題が、上山さんの中でどんなふうに溶け合わないまま並存していくか。
 事実、70年代以後の身体障害者による当事者運動の原点には、「私は何ものにも代表されないし、何者をも代表しない」という個体性の感覚があったと思う*1。当事者運動が言う「私のことは私が決める」という言葉を、傲慢な自己決定論と誤解すれば、まずい。むしろそこには、圧倒的な受動性の感覚、自分のことを常に他人たちに決定され、その存在を無かったことにされ続けてきた人々の恥辱と怒りの感覚がある。自分の存在を他人が所有し続けることへの率直な違和がある。
 ただ、それが自己所有論の肯定に繋がらず、むしろ「自分は自分を所有しうる」という感覚を内的に解体していくところに、つまり「自分は他人を所有できる」という征服感だけじゃなく「自分は自分を完全に所有できる」という全能感に対する二重の批判に転化していくところに、当事者主権のリアルな厚みと深さがあるのだと思う。
 

*1:障害当事者の生存と議会制を含む「代表」の問題には、複雑なものがあると最近感じた。【追記】知的障害者や重心の人の場合、「当事者運動」の意味や文脈、本人を代表=代行することの意味や文脈が社会的・歴史的に異なる。特に重心の人の場合、家族が本人の声なき声を社会的に増幅し代弁し続けねば、直ちに生存に関わるという歴史があった(http://www.normanet.ne.jp/~ww100092/)。しかもその上で、知的障害者や重症心身障害者の生においても、「私は何ものにも代表されないし、何者をも代表しない」という個体化の原理、他者による自己の所有だけじゃなく自己による自己の所有をも退ける「当事者主権」のポテンシャルはひらかれうると思う。