ここ数ヶ月で聞いて少し衝撃を受けた(でも同時に腑に落ちた)言葉

 (他害のある息子について)「でも、この子が暴力をふるうのは、障害のせいなのだから、たとえそれが見知らぬ通行人であっても、この子の暴力をゆるしてほしい」


 (強度行動障害とされる息子について)「もちろん、わたしが死んだら、薬を飲ませるなり入所施設に入れるなり、この子を好きにして下さい。でも、わたしが生きているうちは、この子はわたしの好きにさせて下さい」


 経験の厚い人々に聞いたら「でも、そういうお母さん、多いよ」と。世の障害者の親が、こういうところへ追いつめられる場合がありうるということ、そしてそのことを周りが「そういうお母さん、少なくないよね、わかる」と(別にそれを許容しているという意味ではなく)「腑に落ちてしまう」ということ。上の言葉は、どちらも、(わが子のため、を仮装した)究極の「自己中心」に見えないこともないが、そうは割り切れない。割り切って「正しい」批判を言い通すべきなのかも知れないが、自分には、まだ、その魂的な準備がない。でも、この割り切れない感じ、何かやりきれない感じに、自分の今の感覚の原点がある気がした。そして、上の言葉を口にする人々の話しにいざ耳をすますとなれば、延々とぐるぐると、忍耐力や繊細さ(の持続)が必要なのだが、その準備も能力も今の自分にはない。それらのことを記憶するために、書きとめました(もちろん、上の言葉は、それが語られた具体的な文脈・状況をみなければ、一般論にすぎないんだけど)。