フェアトレード/新しい消費者運動/授産品(1)



クォータリー あっと 0号

クォータリー あっと 0号

 堀田正彦「オルタ−・トレード・ジャパン、「民衆交易」の初志と未来」
 市橋秀夫フェア・トレードは未来をひらく魔法の杖か? イギリスから見た成果とジレンマ」


 正直、やや違和感が。
 なぜだろう。
 とりたてて新しいことが主張されてはいない。ごくおおざっぱにいえば、いわゆる「フェア・トレード」の試みが、時に、ヨーロッパ型グローバリゼーション化/多国籍資本との競合による敗北/企業のイメージアップのためのブランド化/ニッチ産業化、などの「ジレンマ」にさらされる。それが述べられ、美しい「善意のフェア・トレード」というイメージだけでフェアトレードを語ることはできない、と述べられる。


 それはわかる。
 でも、これらの「ジレンマ」は、フェアトレードだけでなく、例えば協同組合やNPO法人など、何らかの(運動体的かつ事業体的な)オルタナティヴを模索する試みが必ずつきあたる、一般的なものではないかという気がする。たとえばマルクスも、協同組合運動は、必ず他の企業との競合にさらされ、破綻するか、株式会社に転化せざるをえない、という「ジレンマ」を摘出した。だから何かが簡単だという意味じゃない。まったく逆に、ありふれた問題だからこそ極めつきにやっかいで、難しく、多くの人がそこで暗礁にのりあげる問題群なのだと思う、きっと。別に堀田/市橋両氏がそう考えていない、というわけではない。ただ、上記の主張が、これらの論文が置かれた文脈の中で、何か皮相的な「フェアトレード批判」の相に収まってしまえばそれは残念な気がするし、堀田/市橋両氏の本意をも損ねる気がする。


 「初志」を問えば、フェアトレードというアクションの根っこには、「誰かの搾取の上に自分の相対的に裕福な生活が成り立っている事実」への生理的な違和感・羞恥・後ろめたさ、があるのだと思う。
 それがただちによいとはいえない。気分としての罪悪感は、かんたんに一方的な善意や逆に攻撃性に転じてしまう。すると大切なのは、個々人がこの感覚を継続的に血肉化していゆくことであり、気分としての罪悪感を本物の筋金入りの「羞恥」の感覚へ鍛えていくことであり、例えば「フェアトレード」という言葉とアクションが形骸化しレッテル化してしまったのなら、そんなものは剥がしてしまえばいい。それだけのことだといまは考える。
 「北の消費者」と「南の生産者」の関係の非対称性を動かせないものと固定したまま、そこに「善意のフェアトレード」を部分的に注入して自己満足してしまえば確かにそれはまずいが、それだけではない、それだけじゃダメなんだ、という異和の感覚がその先になお異物のように腹に残るならば、それは単なる「善意」の次元にはとどまりえないはずだと思うのだけれど。
 そしてこの「誰かの搾取の上に自分の相対的に裕福な生活が成り立っている事実」という「異和」の感覚は、南北格差の問題だけにはたぶん限られない。たとえばid:jasmine156さんは、国内の障害者の授産施設の問題が「下請会社」の問題とつながっていて、そこでは障害のある人々が「他の企業なら見向きもしない、健常者であれば年中行うことに耐えられないような単純な仕事」に従事していること、かつそれが「外国人労働者の雇用問題」とも地続きであることを示唆する、「実際のところ、勤めていた授産施設の下請事業の大口取引先の工場へ私も納品に行ったことがあるが、納品先の工場現場で働いていたのは外国人の方たちだった」(「授産施設の下請事業の問題点」http://d.hatena.ne.jp/jasmine156/20050527)。


 ……などということを上掲論文を読みつつ感じたのだけれど、現在とりたててこの方面で何かに手を染めているわけではない自分にそれを語る資格があるとも全然思えないのだけれど、それこそ今後の実行の「初志と未来」として、ノートさせてもらいました。