『あしたのジョー』を読み返した。

あしたのジョー(12)<完> (講談社漫画文庫)

あしたのジョー(12)<完> (講談社漫画文庫)

 『あしたのジョー』を読み直しているのだけど*1、ライバル力石の「死後」の、ジョーの変化には、異様なものを感じた。
 破天荒なやんちゃ坊主的な(異人的な)ジョーから、暗く沈鬱で何を考えているかわからない(実存的な)ジョーへ・・。よく言われるけど絵柄も、記号的なものから、劇画的リアリズムへ、かんぜんに転調していく。でもそう単純化してしまえば、大事なものを見過ごす気がする。
 力石死後からの物語には、あの「ライバルのインフレ」というエンジンが回転し始めている、と感じた。この感覚がのちの主流格闘マンガへとひきつがれていくのだろうか。それはたぶん、力石がジョーに永遠に追いつけないライバル、不死身の亡霊として憑依したことと関わるのだろう。力石はジョーに勝利した直後に死んだ。死んでしまった以上、ジョーは力石の「影」と戦い続けるしかない。真の「あした」へは、永遠にたどり着けない。力石死後のライバルたちは、カーロス・リベラ金竜飛もハリマオもホセも、すべて力石の「亡霊」に見える。この亡霊の力は、有名な寺山修司らの「葬儀」という国民的儀礼を招き寄せるほどのものだった。
 けれども、ジョーはこのたたかいの無限ラセンから「降りる」。
 力石がジョーとの戦いで「真っ白に燃えつきた」のをそのまま反復するように、ジョーもホセ戦のなかで自ら亡霊=ゾンビと化し、「真っ白に燃えつきる」(ホセはある意味でジョーに「敗北」している)。それだけが、ジョーにとって、力石の亡霊にうちかつ唯一の道だったんだろうか。

*1:それにしても、同じ梶原一騎原作なのに、60年代的な「理想の時代」のリミット(「革命なんか信じないわ、愛と消費だけを信じるわ」)を象徴する作品なのに、『巨人の星』は読むのがキツイ。これはあんまりじゃないだろうか。