東浩紀+北田暁大『東京から考える』




 ここまではその光景について「ジャスコ的」という固有名が出され、どことなく否定的な印象が付されていたけれども――そしてまた実際にそれを否定する議論も多いのだけれど――、僕としてはそれは必ずしも否定されるべきものではないと捉えている。というのも、ジャスコ的世界は、ある意味で安全で清潔な世界だからです。前回に東雲の例を出したことからも分かるように、その「ファスト風土」は――少なくとも東京のなかに進入しているていどのジャスコ的空間は――、適度にバリアフリーで、適度に監視カメラが設置され、適度にベンチやゴミ箱が配置された「住みやすい」空間でもある。そのようないわば「人間工学的に正しい」空間が、いまコンビニやファミレスと結びついて、東京といわず日本中を侵食し、風景を画一化している。人間集団の多様性は、その傾向に抗う力を持たない。(186p)

 そもそも、人間の安全や快適さを追及したら、都市風景や建築の可能性はかなり小さくならざるをえない。バリアフリーやセキュリティを考えたら、エスニック・タウンの路地なんて危険でしかたがない。したがって、東京だけではなく、世界中どこでも、似たような幅の道路、似たような店の配置がなされ、似たようなセキュリティへの配慮が見られるのはしかたがない。そういう環境のなか、多様性はヴァーチャルに確保してくださいという話になるのは、不可避のような気がします。(188p)

 東浩紀は、不穏なところ、危険なところに踏み込んでいる。これは必ずしも悪い意味で言っていない。
 東にその危険な一歩を踏み出させたのは、子どもがうまれた、という実生活の変化らしい。それは案外大切なことなのだろう。「僕は最近娘ができたのでこんな話をしているのかもしれないし、実際そうでしょう」(243p)。次の何気ないひと言は、高度な文化の恩恵を自らは受けながら、わが子はジャスコ的郊外で動物的に育ってほしい、と願う東の中の乖離を示している。「高級住宅街に住みながら、ジャスコ的なリアリティのほうへ子どもたちを容赦なく送り出していく。そこに新しい希望があるかもしれないですよ」(164p)。
 東は最終Ⅴ章の対話で、動物的な「生殖」の水準について触れる。動物的な生殖の水準を考えるとき、ロールズやセンをふくめ、リベラリズムの繊細な議論はすでに役に立たないのではないか。「要は、イデオロギーの闘争には、人間が生きて、死んで、殖えていくという端的な生物学的事実――より正確に言えば、その事実から構成される社会的錯誤があって、それがけっこう分厚いんです。多文化主義リベラリズムの作業が限界まで来たいま、その壁こそが問題になりつつある」(252p)。動物的生殖=世代の持続可能性(サステナビリティ)という水準からシンプルに考えたら、現在の国道16号線的なメガ資本の進行はむしろ必然である。「コスト」の面からいえば下北沢再開発への文化人の反対や郷愁には理由がなく、むしろ「ひとは喜んでそれを選ぶだろう」。
 東によればそれは「どうしようもない」現実なのだ。「個人の単位ではなく、社会全体の設計という観点では、人間の生物学的な制約に抵抗しても仕方ないところがある。(略)人間は動物であり、快楽と暴力に弱く、男女がセックスして子どもを作る。子どもは女性しか産めず、知能には一定のばらつきがあり、合理的判断に限界がある。これはもうどうしようもないことです」(264p)。


 しかし、同じように生殖の局面へと眼差しを向けても、たとえば小泉義之の『生殖の哲学』は、東とは見えるものが全く違うようだ。それは次の猥雑で多様な光景をひらく。「私は、障害者がたくさん生まれたほうが、少なくとも、闇に葬られている障害胎児を生かすだけで、よほどまともな社会になると考えています。街路が自動車によってではなく車椅子や松葉杖で埋められているほうが、よほど美しい社会だと思う。痴呆老人が都市の中心部を徘徊し、意味不明の叫びを発する人間が街路にいるほうが、よほど豊かな社会だと思う。そのためには何をなすべきかと問題を立てています。そのとき、未来と生殖のことを真剣に再考することになります」(『生殖の哲学』111-112p)。


 もちろんこれも単純な二元論ではない。たとえば視覚障害者の倉本智明は『東京から考える』に触れて「これはよくわかる。ごちゃごちゃとした猥雑な街はぼくにとって原風景であり、心落ちつく場所である。けれど、実際に白い杖をついてひとり歩くにはストレスフルであることが多い。常に、というわけではないだろうが、アクセシビリティと街のおもしろみというのはトレードオフの関係にあることが多いようだ。以前、杉野昭博さんとも、バリアフリーをめぐる議論からすっぽり抜け落ちてしまっている観点として話し合ったことがある」(http://d.hatena.ne.jp/r-ribot/20070306)と述べて、障害当事者の立場から、東と同じような結論に至っている。


 しかしそれに対し、ある重度身体障害当事者は、mixiで倉本の言葉に違和感を述べ、次の言葉を引用している。「実は街のつくりなんてはっきり言ってどうでもいいのです。そこに障害者を差別しない意識と、もっと面白いことを創り出そうという好奇心や遊び心、そして「人臭さ」があれば、危険な街をもっと楽しめると思うのです」(「澤田隆司とぶ・ら・ぶ・ら・いこか! 第2回:障害者のバリアフリー・さわだのばりあふりー」p.93、『Wave117 No.2』鹿砦社、1998.2)。


 だとすれば、東が『東京から考える』で述べたようなバリアフリーに関する理解そのものが平板過ぎるし、それ自体が何らかの「バリア」を前提にしているのかもしれない(それはⅠ章でのニート批判(52-55p)にも言える)。これはそもそも、『動物化するポストモダン』以降の東浩紀の「動物」の理解がかなり平板なものである、という認識上の限界にも関係しているのだろう。ヘーゲル、コジューヴ、ハイデガーのラインで「動物」の生命を切り詰めて考えてしまっている。「人間」を否定し「動物」の生の快適さを肯定する東の「動物」理解自体が人間的、あまりに人間的に見える。


 たとえば平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』や雨宮処凛『生きさせろ!』から見えてくる「東京」の風景と、『東京から考える』から見えてくる「東京」の風景は、ほとんど重なり合うことがない。「ここ2〜3年で明らかになってきたのは、こうした「地方」が東京二三区の東北側や郊外一帯にも滲み出るように現れてきたことである。都心内部での地域格差は急激に開きつつある。そういう形で、東北地方のA高校やC高校を卒業した無業者や非正規労働者たちと、東京圏全体に増加し続けるニートやフリーターたちは直接繋がっているのである」(平井「亡霊的プロレタリア」146p)。

 とすればやはり、都市の風景の見え方自体に一定の生活圏のフィルタリング/ゾーニングがあるのだろう。生田武志は最近の『早稲田文学』のエッセイで、大阪のアキバ=日本橋の風景に明治期以来のスラム・貧困街を焼き重ねているが、このような重層的な視点は、副題に「格差・郊外・ナショナリズム」とあるにも関わらず、この本からは見出しようがない(Ⅲ章では経済格差と生活様式の格差が一致せず、したがって格差は目に見えにくくなっている、ということが確認されるが、貧困の「見えにくさ」を堂々と語りうる自分たちの社会的ポジションが反省的に問われることはない)。
 もちろん平井的東京が正しく東的東京が間違いだ、という意味ではない。しかしリアリティの多元さを論じるならば、自分(たち)の認識の狭さと薄さについて自覚的である必要はあり、そのズレ=視差「から」何かを考える、あるいは「考えさせられる」のでない限り、東京という都市「から」考えるという経験は出て来ようがないのではないか。
 率直に、そういうことを思った。