労働運動/生存運動

 労働よりも生存(生命)の価値は大きく、重い。現在の労働運動のポイントは、このシンプルなひと言にある。われわれが最も剥奪されているのは、雇用機会や賃金だけではなく、生存/生命それ自体だから。
 「生きることはよい。生存を貶めるな!」(自由と生存のメーデー07)。
 ベーシックインカムは労働と生存を切り離し、後者のために生存給付を無償で保障する制度のアイディアのことだし、フリーターユニオンふくおか(代表・小野俊彦)は、労働組合と同時に生存組合を名乗り、デモや団体交渉はもちろん、「不安定な人々が集まってお互いのサバイバルを助け合う」「組合員相互の生存を地味に支えあうために米やタバコなどを供給しあ」う、などの活動をプログラムに組み込んでいる。
 労働の争いは、すでに生存の争い、生存運動へとステージが上がっている(最初からそうかもしれないが)。
 そのポテンシャルを、われわれもまだ、十分に出し切っていない。


 「生きさせろ!」は、アナーキーな叫びというより、まず、国や企業に生存権/法的権利を求める当たり前の要求としてある。「生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ方をするな。俺は人間だ。スローガンはたったこれだけだ。生存権を21世紀にもなってから求めなくてはいけないなんてあまりにも絶望的だが、だからこそ、この闘いは可能性に満ちている」(雨宮[2007])。それは、学者が思い込んでいる「カーニヴァル的な抗議運動」=「近視眼的で「すぐ結果が出そうな」」「アナーキズム」(鈴木健介「サイバー・アナーキズムの時代」)とは、ちょっと違う。首都圏青年ユニオンの書記長・河添誠さんは、淡々と述べていた――「ぼくらが組合でやっているのは、世の中で守られる一定のルールはあるだろうと、シンプルにそれだけのことなんですよね。それ以外の、その人の人生に介入するなんてことは絶対にやらない」。自立生活サポートセンター・もやいや反貧困ネットワーク準備会などでは、貧困支援者たちが弁護士や司法書士などの法律家と今まで以上にネットワークを強化し、生活保護の普及運動を推し進めている。〇六年一〇月の日弁連人権擁護大会では、戦後初めて生存権がテーマとなり、「生活保護の申請、ホームレス問題等の生活困窮者支援の分野における従前の取り組みが不十分であったとの反省に立ち、今後、研究・提言・相談支援活動を行い、より多くの弁護士がこの問題に携わることになるよう実践を積み重ね、生活困窮者支援に向けて全力を尽くす決意である」と明記された。
 われわれは、まず、「自分みたいな末端の労働者が法律に守られているはずがない」という自己規制=リミッターを、内側から解除すべきなのだろう。


 しかし、法的権利要求だけでもない。
 例えば近年、哲学や社会学では、「生権力」に関する議論が積み重ねられている。
 抽象的な議論に聞こえるかもしれないが、われわれの日常生活や労働の現場とも、案外、身近なものだと思う。
 ミシェル・フーコーは、一七世紀以降、新しく発展してきた権力の様式を「生権力」と呼んだ。一つは、この私の身体に規範的な規律訓練(ディシプリン)を埋め込んでいくタイプの権力。これは犯罪者を監獄へ監禁し更生させる、というイメージ。自分に自分を監視させていく。監獄に限らず、軍隊・工場・精神病院・学校などに、個人を「従順な身体」に改造していく監視・管理テクノロジーが染み込んでいく。もう一つは、人口の調整管理(レギュレーション)を主軸とする生政治(バイオポリティクス)としての権力。これは出生率・死亡率・寿命などの人口政策や公共政策を通して、人々をコントロールしていくイメージ。
 つまり、生権力は、上から押さえ込んで殺す権力ではなく、われわれの生の多様性を、特定の生の様式に順応させ「生きさせる」権力としてある。「よい生」が選別・保護され、「よくない生」はゆるやかな死滅・廃棄へと導かれ(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070910/p1)、社会や種全体の一定の「正常さ」が目指される。
 この時、われわれの《生/生存/生命》は、権力・抵抗・生き残りが複雑にクロスするバトルフィールドになっている。それは、生の価値が労働の価値へと一極集中されている今、特に「労働する生・身体」をめぐって、顕著かもしれない。フーコー以降の哲学者たちも、生権力を、それぞれに分析している(檜垣[2006])。
 「命を大事に」というヒューマニズムでは片付かない。むしろ、次のラディカルな認識を、未来にひらく。「ドゥルーズの生命哲学が関心を寄せることは、胚細胞が生い立つか流れ去るかということである。この世に生まれ出るすべての個体は、すでに自然選別を受けて世界に適応したし、すでに生と死のゲームを命懸けで潜り抜けた。だからドゥルーズは、無条件に個体の生存を肯定するし、個体のいかなる変異も肯定する。そして、分子生物学の発展に伴い、進化の単位は種に置かれるというよりは、パーツとパーツの出会いから生い立つ個体に置かれることになるから、その意味でもドゥルーズは進化を無条件に肯定する」(小泉義之ドゥルーズ』)。「私は、障害者がたくさん生まれたほうが、少なくとも、闇に葬られている障害胎児を生かすだけで、よほどまともな社会になると考えています。街路が自動車によってではなく車椅子や松葉杖で埋められているほうが、よほど美しい社会だと思う。痴呆老人が都市の中心部を徘徊し、意味不明の叫びを発する人間が街路にいるほうが、よほど豊かな社会だと思う。そのためには何をなすべきかと問題を立てています。そのとき、未来と生殖のことを真剣に再考することになります」(『生殖の哲学』111-112p)。


 これらの試みは、例えば、森岡正博が提唱し展開する「生命学」(「私たちが生きること、いのちあるものたちと関わり合うこと、生の喜びや苦しみを分かち合うこと、この世での生を閉じることなどについて、自分を棚上げにすることなく考えを深め、いろんな人たちと学び合いながら、生きていくこと」の学)や、立岩真也を中心に拠点化が進む「生存学」(「障老病異と共に暮らす世界の創造」を目指す学的拠点)の潮流などとも、おそらくパラレルである。森岡によれば、一九七〇年代のウーマンリブや青い芝の活動では、アメリカの生命倫理学よりもずっと深く、また先を行く「生命」についてのラディカルな捉え直しがなされていた([2001])。近年のわれわれの労働運動が、一九七〇年代のウーマンリブや障害者運動(青い芝の会)から学びうることは、たくさんある(杉田[2007a][2007b])。山森亮は、日本の青い芝と、イタリアのアウトノミア運動の同時性に触れている(ディスカッション「ベーシック・インカムとはなにか」、『VOL』2号)。
 実際、皆さんの方がご存知だと思いますが、近年の労働デモなどに参加すると、自然発生的に、身体障害者・老人・性的マイノリティ・精神障害者・コスプレ・難民などの「障老病異」な人々が、百鬼夜行的に合流している光景に遭遇する(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20060805/p1)。これらの多様な交流の中で、生存/生命は、次のステージへとグレードアップされずにはいないと思う。


 大切なのは労働運動をこの水準からひらいていくことではないか。
 その意味はまだ、われわれ自身にもよくわかってはいない。