「障害者自立生活運動の原点に学ぼう!」――障害者運動とケア労働運動

 以下のイベントに行った。

 「障害者自立生活運動の原点に学ぼう!」
第1部 映画上映会 14:00〜15:40『こんちくしょう――障害者自立生活運動の先駆者たち』
第2部 パネルディスカッション 15:55〜17:30「自立生活運動の前進と介助者の当事者性獲得に向けて」

パネリスト
福永年久さん(「こんちくしょう」製作総指揮)
関根善一さん(町田ヒューマンネットワーク)
菅原和之さん(世田谷介助者ユニオン〈仮称〉準備会)
コーディネータ−
横山晃久さん(自立生活センターHANDS世田谷理事長)

主催 NPO法人自立生活センターHANDS世田谷
共催 世田谷介助者ユニオン(仮称)準備会
協力 東京ケアユニオン

 パネルディスカッションでは、障害者運動(青い芝〜JIL系)と介助者運動の連帯が強く主張された*1
 ケア労働者のワーキングプア化がメディアでも伝えられるようになった。しかし、障害者介助の現場を眺め渡しても、ケア労働者の労働運動/ユニオンはほとんど見当たらない。ほかには京都のJCIL系の「かりん燈」くらいしか知らない。どちらもまだ創成期にある。高齢者=介護保険系では、大きな組合や団体などにヘルパー労組が山ほどあり、ネットで検索しても無数に見付かるが、実働的にどの程度動けているのかは正直わからない。
 「世田谷介助者ユニオン」は、まだ準備会の段階だが、「介助者が当事者として運動を作ろう!」と呼びかけている。

 《障害者自立生活の中で、介助者は「空気のような存在」「黒子的な役割」として語られることもありました。しかし、その表現は、「介助者のロボット化」を求めるものではありません。だからこそ、自立生活運動の中でも、介助者の「職業的地位の確立」が要求されてきたのです。ただし、介助者に関する要求まで、障害を持つ人たちに代行的に主張してもらうことだけでは、現在の厳しい状況を打開することは出来ないでしょう。介助者も自らを生きる主体として、社会保障・介助制度に意見するときだと考えます。「重度障害者が地域で自立する」ことと「介助者が労働者として自立すること」は、自立生活運動にとっての二本柱であるはずです。それは、全業種中最低ランクの所得でしかないといわれる、介助者を含めた介護・福祉関連職の人達とも連携し、新自由主義の中で進んでいる格差社会を変え、共生社会へと転換することにもつながるはずです。》

 障害当事者である横山さんや関根さんの側からも、介助者の生活保障の必要が主張された。介助者の側からも自立生活運動を考え直そう、と。障害者を取り巻く状況は20年前に戻ってしまっている。両者をもう一度ぶつけあい、そこからもう一度考え直そう、と。
 横山さんは、(障害者の団結も必要だが)介助者もいま横の繋がりがなくてあまりに孤立してしまっている、介助者にも自己主張してほしい、戦ってほしい、介助者の全国組織を5年くらいかけて作ってほしい、と言っていた。
 青い芝は「強力な自己主張」を言ったけど、介助者も「自己主張」してほしい、と。
 菅原さんは、「ああ、介助者・ヘルパーの全国組織を作ろう、って提言も障害当事者に代弁させちゃったよ」と苦笑していたが。


 しかし、「障害者自立生活運動の原点に学ぼう!」とは、自立生活を実際に続けてきた自分達にも「自立生活運動の原点に立ち返ること」を求めるものとして言われていた。
 六〇年代七〇年代に比べて、制度的には、重度身体障害者の自立生活は珍しくなくなった。しかし、そのことで、障害者は本当に社会の一員として認められているのか? という疑いから、映画『こんちくしょう』は始まる*2。今あらためて、もう一度自立生活とは何かを問い直すために、福永氏は、制度が何も無かった時代に、地域での自立生活を自力で勝ち取ってきた世代の人々へのインタビューに向う。
 横山さんや関根さん(第二世代)には、自分達の運動の歴史の「失敗」の意識があるようだった。制度や物理的環境はよくなった。行政とのパイプもできた。その分、個々の当事者のパワーは弱くなった。次世代(第三世代以降)に解放運動の意味を伝えきれなかった。昔はものすごく不便だったけれど自由だった、今ははるかに便利になったけど不自由になった、と関根さんは言っていた。自活的に生きることは容易になったが、かえって孤立は深まった。地域から切り離された。ヘルパーが来れば、ヘルパーがいるから大丈夫だろうということで、逆に近隣の人とは繋がれなくなる。トラブルや偶発性を通じた出遭いの機会も減っているように思う。制度や物理的環境が整うこと自体が否定されていたのではないと思う(それはバリアフリーをめぐるとても繊細で重層的な評価にもあらわれていた)。ただ、整うことで、原点にあるはずの肝心なものまでが洗い流されてしまえば、それはまずいだろう、と。
 念をおすと、「昔はよかった」と回顧的になっているのかと言えば、そうでもないように思う。自分達の足りなさを率直に認め、伝えるべきことを後発世代に伝えられていないことも認め、これからに向けて別の何かが必要であることも認められていた。その上で「障害者自立生活運動の原点に学ぼう」と言われていたように思う。


 かりん燈と言い世田谷介助者ユニオンと言い、少しずつではあれケア労働者・介助者の労働運動の兆しが出てきた。
 障害者運動と労働運動の連帯についてうまく想像することは今ではずいぶん難しくなってしまったが、かつてそれは障害者運動を次のステージへひらくものとして捉えられていた時期もあったのだ(楠敏雄『「障害者」解放とは何か』)。
 ただ、これまでにも、障害者運動と労働運動は様々な敵対や失敗を招いている(青い芝の失速の原因の一つもその辺にあったと横塚晃一は書いている)。やり方によっては介助者の生活保障要求が障害者の生存権と抵触する可能性が無いとは言えないし、実際そういう危惧の声は会場からも聞かれた。それらの歴史は十分に学ぶ必要があるだろうとも思う。


 もちろん、障害者ばかりのことではなく、介助者/ケア労働者にとっての「自立生活」とは何かを再考したほうがよいとも思う。賃金保障や生活保障を求めればそれでよいのかどうか。障害者の自立生活とは何かをあれこれ言う人が、自分の自立生活について問いをスルーしている場合はしばしば見かけるから。


 ちなみに、2008年1月31日には第10回パーソナルアシスタンス☆フォーラムがあり、タイトルが「うお〜!350万で「おもろい」仕事!!」だそうである。かりん燈の渡邊琢さんも対談に参加する。
 また世田谷介助者ユニオン準備会でも2月24日に再びイベントをひらくらしい。
 (どちらもネットで見つけられなかったので、見つけたらまた宣伝します。)

*1:「介助者」と「ケア労働者」は重なるが一致しない。前者の方が言葉として広い。介助が労働に切り詰められることを嫌う人も多い。介護/介助、ケア/パーソナルアシスタンス等の言葉には歴史的に様々な意味が込められる。会場ではだから「介助者」という言い方が主流だったと思う。しかしぼくは「ケア労働者」と自己規定する。その意味はまた別に述べる。

*2:『こんちくしょう』への感想もまた別に(書ければ)書く。