市野川容孝「飢餓という殺害」

 メモ。


 市野川容孝がフーコーの「生権力」(生きさせるか、死の中に廃棄するという権力)を「餓死するにまかせる権力」として再解釈している(「生‐権力再論――飢餓という殺害」『現代思想』2007年9月号)。
 市野川は、餓死というとき、食糧不足や栄養失調のみならず、HIVエイズの薬剤や人工呼吸器がないこと、それらを与えられないまま放置されて死んでいくことをふくめている。作為的に殺すのではなく不作為のまま死ぬにまかせておく権力。
 ナチズムの安楽死もまた(ある部分では)、作為的に殺しただけではなく、不作為(放っておくこと)によって例えば精神病院内の精神病者を殺害した。もともと第一次大戦中には、ドイツ国内の精神病院では、約七万人の精神病者が飢えと栄養失調で死亡している。この数は、ナチの安楽死計画によって一九四一年以降に殺害された精神病者の数とほぼ等しいという。ここから目を転じて、市野川は、現在の日本の、生活保護の締め付けによって餓死する=させられていく人々の姿に、安楽死の中に働いていた生権力と同じタイプの権力(不作為を装って餓死させていく権力)を見通している。
 日本でも着実に整備が進みつつある尊厳死法案をその背後で支えているものに、たとえば、非正規雇用者や野宿者の生を廃棄しようとする力を重ねてみようとすること、そういう想像力のありかを市野川は指し示している。