内なる帝国が内から破られる――デイヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』



 今月は仕事が山積みで全然時間が足りないんだけど、今日は連れと恵比寿ガーデンプレイスへ行き、待望のデイヴィッド・リンチインランド・エンパイア』(2006年)を観ました。
 細かい部分は殆ど意味不明だった。でも凄かった。黒沢清『叫』アンゲロプロス『エレニの旅』の時のように、作家が自分の限界を自力で超えていく時のブレイク感がぼくの中に吹き込んだ。リンチはもちろん、新しい何かを導入してはいない。いつもと殆ど同じ貧しい素材や道具しか用いていない。それでいながら、何かが別の水準へと切りひらかれた感触。
 (何しろ非常に難解で複雑な映画だし、一度観ただけの感想なので、基本的な勘違いなども多々含まれると思うが、ファーストインパクトを書きとめる。このあと、他の評者の感想や見解を色々調べて、間違いは修正していく。)


 「一人の人間が、二つの別の人生を生きること」は、リンチ的世界の無条件の公理としてある(黒沢清の世界では、幽霊やドッペルゲンガーが理由も意味もなくなぜか「二人」現われるのだが、リンチの場合は、同じ一人の人物が、なぜか二つの人生、二つの世界を同時に生きる)。
 『インランド』でも、ローラ・ダーンは、ローラAの人生(世界)とローラBの人生(世界)を生きる。なぜそういうことが生じるのか。理由や合理的解釈はない。(『マルホランド・ドライブ』では「ブルーボックス」という象徴的アイテムを起点に世界がひっくり返っていく(夢オチ解釈が可能)し、『ロスト・ハイウェイ』では獄中で主人公が全く別の人間に「変身」するという特異点があったわけだが、5つ以上の世界が入り組む『インランド』では、もう、そういう位置づけ=解釈の余地もないように見える。いや、細かくマニアックに解釈していくと、かなりの部分が体系的に解釈可能なのかもしれないけど。)
 リンチ的世界では、夢と現実、映画と現実の区別ができない、のではない。「この現実」自体が、夢=映画と同じような原則に沿って形作られている。だから、出来事は因果関係を飛び越えてばらばらに生じるし、現在見えているイメージと過去の映像を想起したイメージの区別もできないし、一人の人間が二つの人生を生きることもべつにおかしなことではない(だから観客がそれを合理的・因果的に解釈しようとすると、至るところに不整合が生じたり、「なんだこれ、意味がわからん」という話になる)。しかし、「この世界」のどこか「外」に、真実の世界があるわけではない。繰り返すが、これは「世界なんて全部夢だ」「全ては虚構だ」ということではない。「この世界」が夢=映画と同じ原則に沿って構成されている、世界はそういうふうにできている、ということだ。
 そしてリンチの場合、よく言われるように、現実=夢=映画は、特定の年代のハリウッド映画的な素材・出来事(の集合)のみから成り立っている。だからそれはすごく狭苦しく、閉塞的で、息苦しい世界でもある。文字通り「内なる帝国」としてある。


 ローラA(ニッキー)は、町の有力者の夫(ピーター・J・ルーカス)と豪邸に住み、ハリウッド女優としての再起を狙って映画『暗い明日の空の下で』に出演し、映画の内容通り、男優ジャスティン・セローと不倫関係に陥る。ローラB(スーザン)は、それほど裕福ではない家に住み、過去に子供を失って生きる気力を無くし、最近再び妊娠したことを夫に報告するが、夫はそれを喜ばず、逆に妻に暴力を振るい、サーカス団に入って東欧へ逃げてしまう。或る夜、ローラBが不倫相手(同じくジャスティン・セロー)の家に行くと、彼の本当の妻ドリス(ジュリア・オーモンド)と息子がいて、ローラBは家から追い出される。ハリウッド通りで顔なじみの娼婦たちと会ったあと、ローラBは、ドリスにドライバーで腹を刺され、黒人と日本人のホームレスたちに看取られ、死んでいく。ローラBの人生は、ローラAが女優として演じる映画内映画『暗い明日の空の下で』であるように見えるが、この現実/映画の区別は、あとで触れるように、崩されていく。
 ローラAの人生はハリウッド映画によくある「不倫して夫に殺される女性」のパターンを、過不足なくなぞる。というか、このパターンは、リンチ的世界では純粋な《出来事》(形式)としてある。ローラAの不倫と殺人が、実際に過去に生じた出来事なのか、それとも未来に生じるだろう予言的な出来事なのか、わからない。実際ローラAは、セローとまだ会ったばかりで身に覚えもないのに、撮影スタッフや夫、テレビ番組の司会から、「不倫なんてするな」としつこく釘をさされる。あたかも「彼女と彼が不倫すること」がかつて既に生じた出来事、あるいは未来に必ず生じると確定した出来事であるかのように。だからローラAは、自分の見覚えのない行為について、漠然とした、しかし非常にリアルな不安・恐怖・気分に苛まれ続ける。自分でも見覚えのないところですでに不倫し、記憶にないところですでに誰かを殺してしまったかのように。冒頭近くに《怖い…》という女の呟きが聞こえる。何がどう怖いのかはわからない。こわがっている人物が誰なのかもわからない。またいつのことなのかもわからない。そういう(対象・主体・時間的に)非人称的なものとして、この《怖い…》という囁きはある。他方でローラBの人生は、《不幸な家族生活に不満をもち、不倫して、相手の妻から復讐される》というハリウッド的なパターン(出来事)の中にある。


 映画内のドリスが、酒場で見知らぬ男から、「誰か知り合いの男」を殺すように催眠術をかけられ、不安に襲われる場面がある。リンチ帝国の領土に足を踏み入れた女性たちは、あたかも、催眠術をかけられたという記憶さえも催眠術によって封印されたかのように、自分で気付かないうちに特定の《形式=パターン》(不倫する、誰かを殺す、誰かに殺される)を必然的になぞることを強いられていく。しかも、それが自分の欲望=主体的意志であるかのように。いったんこの催眠術――それが催眠術であることに本人が気付けないメタ催眠術――にかけられてしまうと、このリンチ的な現実=映画=夢の世界から、女性たちは抜け出せなくなる。リンチの欲望と自分の欲望が重なり合う(というか、リンチ的欲望の形式にある程度同調することでパスポートを交付されないと、リンチ帝国へ入ることを許可されない)。リンチは『インランド』を「A WOMAN IN TROUBLE」としか語らなかったが、その意味では、ローラ・ダーンですら、誰でもあり、誰でもない匿名的な(非固有名としての)「A WOMAN IN TROUBLE」なのだろう。そして、リンチ的世界は、「ハリウッドの神話によって殺されていく女性たち」の悲鳴と泣き声によって――過去の無数の幽霊によって、そしてこれからも延々と殺されていくだろう女性たちの影によって――埋めつくされている(官能的=天国的でもあり哄笑的=地獄的でもある、『インランド』の娼婦たちもまた、ローラと同じくハリウッド神話の犠牲者たちなのだろうか)。


 後半、ローラBがドライバーで腹を刺され、ホームレスに見守られて死んでいくシーンは、あたかも、『マルホランド』と同じく、それまでのローラAの現実(裕福な家で執事やメイドに囲まれて暮らし、女優としても再び成功しつつあり、真剣に愛し合える不倫相手のいる人生)は、不幸なローラBが死にゆく間際に見た「夢」であるかのように、いったんは見える。実際、黒人女性や裕木奈江の会話や、彼女が死ぬ間際にハリウッド通りで目にした看板や風景は、ところどころ、ローラAの人生の重要な素材を成していて、死ぬ直前のローラBの脳に、それらの夢素材がインプットされ、彼女の無意識と記憶の中でミックスされ、ローラAの人生が彼女の脳内で一瞬のうちに構成された、という解釈も成り立つ。
 これは、前作『マルホランド』の仕掛けを、リンチが自己模倣的になぞったものと言えるだろう。


 しかし、ローラが死ぬと、映画撮影のクレーンが画面に現われ、ローラBの死は、ローラAが演じた映画内の物語(映画内映画『暗い明日の空の下で』)だったことが、すぐにわかる。現実は再び反転する。すると、やはりローラAの人生が現実、ローラBの人生が虚構(映画)だったのだろうか。
 しかしこの区別ももちろんすぐに崩れる(リンチがそんな単純なメタフィクションで終えるわけがない)。そのことを象徴するのが、撮影が終ったあと、ふらふらと何かに取り付かれたように現場から立ち去ったローラAが、ある映画館に入ると、その誰もいない映画館のスクリーンには今まさに自分が撮影していた映画『暗い明日の空の下で』の映像が流されていて、彼女がそれを訝しげに見つめていると、やがて彼女が現実に見ているものと、スクリーンに映し出されているものが重なり始め、同一化し、そして彼女がその映画=現実の中へと踏み込んでいく、というシーンである。ここではもう一度、《現実=映画》《ローラA=ローラB》がダブル化する。(だから、『マルホランド』の「泣き女」の劇場のシーンのような、「今自分がいる現実は実は死に行く間際の夢で、自分たちは本当はもう死んでいるんだ」という哀しいカタルシスは、『インランド』には生じない。『マルホランド』では、「泣き女」の歌が実際に今歌っているのではなく、事前に録音したテープを再生したものであることが分かるが、逆にいえば、それは、「全ては虚構=夢である」という非・真理が『マルホランド』では確定されたということであり、他方で『インランド』には、このような真理/非・真理の区別が結局最後まで成り立たない。しかし、メタ(外)を封じたからこそ、内なる帝国の自壊と自己陥没を貫くからこそ生じる強い《外》があると思う。)


 『インランド』には、冒頭近くから、テレビの画面(そこにはウサギ人間や、冒頭近くでローラAの屋敷にやってくる不気味な女が映される)をみながら、ひたすら泣いている「泣き女」が繰り返し出てくる。
 彼女はなぜ泣いているのか。それはわからない。誰のために泣いているのかもよくわからない。ある意味では、彼女は、誰のためにでも何のためにでもなく、ローラAやローラBをふくめて、リンチ的世界で永久に繰り返される悲劇や殺人――「殺された」事実すら消されていく形式的な「殺人」――のために、そこで生じる全ての出来事のために、ひたすら泣いているのかもしれない。その意味で、彼女が「泣くこと」は、中上健次千年の愉楽』のオリュウノオバのように、永久にローラAやローラBが抜け出せないリンチ的世界(現実=夢=映画が渾然一体となった無時間的で非人称的な世界)全体を、メタレベルから悲嘆し、哀悼し、かろうじて慰撫しているのかもしれない。彼女の泣き顔は美しい。澄んでいる。
 しかし、ここでぎょっとしたのは、先ほどのシーンのあとローラが一つのドアを開けると、そこにはメタレベルにいるはずの泣き女がいて、二人は泣きながら抱き合う。抱擁しているうちにローラは幽霊のように消える。
 ローラが消えたあと、泣き女は、ふいに何かに促されるように、その部屋を出る。やがて彼女が暗い階段と廊下をぬけて辿り着いたドアを開けると、そこには中年の男性と少年がいて、彼女は何かと和解するかのように、二人と静かに抱擁する。男と少年は、泣き女がかつて別れた夫とその子供なのだろうか。わからない。
 しかし、ここでは、ローラA/Bたちの生のあり方、混乱と恐怖の中でひたすら泣き叫び続けるしかないような生き方が(リンチ的な出口のない現実=映画=夢の世界の内側では、帝国市民として以外には生きられない)、内なるリンチ帝国の内陸部を果てまで生き抜くことで、本当は自分たちの世界のメタレベルにいるはずの「泣き女」の人生に、ある肯定的な赦しと和解の可能性をもたらし、彼女を部屋とテレビ(それらが彼女の「内なる帝国」なのかもしれない)の「外」へと解放してゆく。このとき何かが破られている。おそらく、あの「内なるリンチ帝国主義」の内陸部で永遠に縮小再生産され続ける《出来事》Aとは何か別の〈出来事〉Bが生じている。


 それだけにはとどまらない。この泣き女の場面と重なるように、画面は、冒頭近くのローラの部屋へと再び戻ってくる。訪問者の不気味な女に促され、ローラAは、自室のソファのほうへと顔を向ける。ソファには、もう一人のローラ(おそらくローラB)が座っている。ローラBは、ローラAを正面から見つめて、優しく微笑んでいる。あの悲惨な人生など最初からなかったかのように。ローラAとローラBは、鏡のように向き合いながら、お互いの人生と運命を肯定し合っている。これは、リンチの中ではじめて、二つの人生を生きる同じ人物が出遭い、正面から向き合った場面ではないか。このときリンチの欲望は、たとえば『マルホランド』が行き着いた救いようのない哀悼や、『ロスト』が行き着いた出口の無い不安とは違う形で、現実/夢、現実/映画、オリジナル/リメイクの区別がつかない世界、隅々まで全面化した内なる帝国、純粋な<出来事=形式>だけがひたすら循環し続ける永劫回帰的な「ハリウッド映画」の世界を、はじめて(?)全的かつ祝祭的に肯定し得たのかもしれない(『ワイルド・アット・ハート』の冗談めいた平板な多幸感を、何重にも立体化し、濃縮した感じ)。
 もちろん、リンチ的な現実=映画=夢の世界が、ハリウッドの産業と神話が強いる暴力を「動かせないもの」としてあらかじめ前提に置いてしまい(リンチ自身の欲望もまた、別の誰かのメタ催眠術にかかっているのかもしれない)、その中で「ハリウッド神話に過去も未来も殺され続ける非人称の女性たち」の人生を悲嘆したり肯定したりしているという意味では、それを歴史的・社会的な視点から相対化し批評する作業も、必要なのかもしれない。
 しかし、『インランド』には、閉塞的で貧しい手持の材料でやっていくことにもう開き直った、というか、いくところまでいった、だからもうこれしかない、という突き抜けていく肯定の強度が〈出来事〉として生じているようにぼくには見えた。