暗い時代のヒトビト

 アレントの『暗い時代の人々』を読み始めたが、面白いです。

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

 なるほどと感じたのは、アレントが言わば「公的な言葉の輝きがあらゆる言葉の光輝を奪う」と考えているように読める点、そんなタイプの言葉に「皮肉で邪悪な響き」を聞き取っている点だ。公的=政治的なものを装った「無意味で通俗的な」言葉の奔流が世界を満たす、だがそこでは本当の公共性が奪われていく(=私有化されていく)。「ものの本質を暴くのではなくそれを絨緞の下に落としこんでしまう言葉」「古き真実を護持するという名目であらゆる真実を無意味な通俗性の中におとしめる道徳的その他の説教」に抗戦すること・・。

 公的領域の機能とは、自分が何者であり、何をなしうるかを、良かれ悪しかれ、行為と言葉によって示すことができる場を設定することで人間的事象に光を投げかけることである。とするなら、その光が「信頼の喪失」や「見えない政府」によって、またものの本質を暴くのではなくそれを絨緞の下に落としこんでしまう言葉によって、さらには古き真実を護持するという名目であらゆる真実を無意味な通俗性の中におとしめる道徳的その他の説教によって消されるとき、暗闇は招来される。(略)
 われわれの文脈における重要な点は、「公的なものの輝きがあらゆるものの光輝を奪う」という皮肉で邪悪な響きを持つ命題が、まさに問題の核心を突いており、実際にはそれが現状の最も簡潔な要約にほかならないという点にある。(『暗い時代の人々』「はじめに」)

 その上で、「公的領域=光=対話」vs「暗闇」というアレントが敷く図式への、基本的な同意とその先になお残る違和感についても述べていこう。
 アレントは「ドイツ語圏におけるあらゆる論争の元祖であり師であったレッシング」についてのエッセイで、兄弟愛と友愛を区別し、こう書く。

 ギリシア人にとって友情の本質は対話の中にありました。かれらは絶えざる議論の交換だけがポリスの市民を結合すると考えました。対話の中で、友情の政治的重要性とそれに固有な人間らしさとが明らかにされます。こうした会話は(各個人が自分自身について語る親密なおしゃべりに比べて)、それがたとえ友人がいるという喜びに満たされていたとしても、共通の世界に関心を寄せるのであり、共通の世界はそれが絶えず人々に語られるのでなければ、まさに文字通り「非人間的」のままにとどまります。

 好戦的といえるまでに論争的であったレッシングは、孤独に耐ええなかったように、あらゆる差異を抹殺する、度の過ぎた兄弟的な親密さにも耐えられませんでした。かれは論争を行った相手と実際に仲違いすることに熱心であったわけではありません。かれはただ、世界の出来事やそのなかの事柄について絶えまなく頻繁に語りあうことによって、世界を人間的にすることに関心を寄せていたにすぎません。かれは多くの人々の友人となることを望みましたが、誰の兄弟となることも望まなかったのです。

 アレントは、こんな対話的友愛の空間は、人々の手で自発的に「創造される」ものであると考える。*1以下は、彼女が敬愛するカール・ヤスパースについての評。

 ヤスパースの思考が空間的であるのは、それがつねに空間の中にある世界と人間とに関わり続けているからであり、それが何らかの現存する空間に束縛されているからではありません。実際、かれの場合はその正反対です。と言いますのは、かれの最も深い目的は人間の持つフマニタス(人間らしさ)が純粋かつ明瞭に現われうるような「空間を創造する」ことだからです。この種の考え方はつねに「他の人々の思考と密接な関係をもつ」ものであり、それが少しも政治的でない事柄を取り扱うときでさえも、政治的であらざるをえません。

【続く】

*1:【後記】ルネサンス期の文人は言うまでもなく、明治期の知識人にも遠く及ばない貧弱な(血肉化されていない)知識を有閑階級の暇に任せて弄ぶ小鳥連中が、自分達が最前線の空域で何かを死守していると勘違いし、鳥カゴの中でキョーヨーキョーヨーとぴよぴよさえずっているのを聞くと、例えばJ・S・ミル『自由論』の次の言葉を思い出す。《権威によって抑圧されつつある意見は、あるいは真理であるかもしれない。それを抑圧しようとしている人々は、いうまでもなく、それが真理であることを否定する。しかし、彼らは不可謬ではない。彼らは、その問題を全人類のために決定し、他のあらゆる人々が判断する手段を排除する権威をなんら持っていない。それの誤りを彼らが確信しているという理由で、或る意見に耳を貸すのを拒むことは、彼らの確信をもって絶対的確実性と同一視することだ。全て議論を抑圧することは、自己の無謬性を仮定することである。討論を沈黙させる主張を非難することは、このような平凡な議論をよりどころにすることを許されるだろう。その議論の平凡であることは、全く差し支えない。(略)人は、自分の孤独の判断に対して自信がなければないほど、いよいよ盲目的な信頼をもって、「世間」一般の無謬性に依頼するのが常である。そして、各個人にとっての世間とは、彼が接触する世間の一部分――すなわち、彼の属する政党、宗派、教会、社会階級など――を意味する。(略)自由な論議の未来が開かれたままであるならば、たとえ一層完全な真理が他に存在していても、人間の精神がそれを受け取り得るならば、必ずその真理は発見されるであろうと望むことができる。そして、その間は、我々は、現在において可能な限りの真理への接近に到達したということに安んずることができる。これこそ、誤り易き存在によって到達しうる限りの確実性の全てであり、またこれこそそのような確実性に到達するための唯一の方法なのである》(第二章「思想および言論の自由について」)。こんにちの新自由主義者たちの欲望は「保守革命」(ブルデュー)にあると言っていい。中野重治の批判する意味での「新官僚主義」にも近いかも知れない。「(略)彼らのいうことが正しいとすれば、日本は現在あるがままでしごく明るいことになり、日本の現実生活は絶対相容れぬ二つのものに裂けた状態から調和ある純粋な統一物になることになり、私たちはそれに愛情をそそがねばならぬということになるのだから、私はいやな気持ちになってばかりもいられず、彼らをもう一度読みかえしたものだった」(中野重治「文学における新官僚主義」)。それに対する抵抗原理を、全否定的=サヨク的わがままではない形で見出せるだろうか。