チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』感想



 2014年12月15日、チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(KAAT神奈川芸術劇場)をみにいった。
 まず言いたいのは、「チャラチャラーっとした」しょぼさ(受動性)に、ここまで附き合ってくれる作品が現代にあって、僕にはありがたい、ということ。特に衆議院選挙の投票翌日に観たので、身に染みるようだった。
 僕は演劇をみる習慣の全くない人間なのだけど、ずいぶん前に、僕の『フリーターにとって「自由」とは何か』という本を、岡田利規さんが『エンジョイ』(2006年)の「原作」に使ってくれて、それ以来、チェルフィッチュの作品を観てきたのだが、『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』(2009年)を最後に、僕は子育てやら何やらがあって、劇場に足を運べなかった。今回はそれ以来になる。
 こんなふうに思った。
 しょぼさをただしょぼさのままに見つめていく。しょぼいことの悲しみを感傷的に描くのではない。あるいはそれをたんに滑稽化するのでもない。ただありのままにみつめていくと、それは「悲しいけど、笑える」(観客の質疑の言葉)のであり、でもそのしょぼさが、しょぼさを一ミリも消さないままに、何か別のものに変貌していく(いわば内在的横越)。
 出てくる人々は、コンビニの店員も上司も、お客さんたちも、本部からのスーパーバイザーも、みな、どこまでも環境依存的で受動的な存在たちであるように思える。彼らは、かつての『エンジョイ』『フリータイム』『ホットペッパー』の、フリーターや派遣社員のような「労働者」ですらなくなっている。つまり、労働者のポジションから社会を批判的に見つめることすらできなくなっている。そこでは労働者/消費者の境界線が溶解してしまっている。
 彼らの消費的な受動性(しょぼさ)は、どんな意味でも、決して「希望」や「抵抗」に転じることがない。
 彼らの生は「チャラチャラーっとした」しょぼさにとどまり続ける。
 そのぎりぎり感。
 『Wバニラリッチ』の前半は、以前の「超リアリズム」というよりもまさに「リアリズム」的なものになっていて、店員や観客の生態や、あるいはコンビニのシステムなどが、緻密にリアリズム的に描写されていく。まずは素直なわかりやすさ、エンターテイメント性が重視されているようだ。単純にいえば、とても「わかりやすい」。言葉/身体/音楽のズレも少なめで、それらはある程度同期している。
 しかし、途中から、リアリズムの平面を多層化(立体化)するようなレイヤーが混入してくる。客2の「消費社会批判」、店長の狂気じみた「夢」(廃棄のお弁当が交尾・出産する)、スーパーバイザーの妄想的「神話」(天から降臨したUFOがコンビニの起源)など。これはチェルフィッチュとしての新局面なのだろうか。
 かつての作品では、複数の身体の星座的な関係=組み合わせや、ミニマルな反復性の中に(ボレロのように)超越性が宿っていたと思うけれど、『Wバニラリッチ』では、もっと即物的で具体的なもの――たとえば「やきそばUFO」や「バニラアイス」などの身近でチープな商品が、一瞬、聖なるもの(ご神体)になっていく。
 それはバッハの音楽を、バロック的なものを抜き取って、あたかも初期ファミコンのようなピコピコ音として使っているところにも、言えるかもしれない。
 そうした神話性や宗教性を産み出しているのは、物語(ドラマ)の構築的な力でもあるだろう。アフタートークによれば、岡田氏は今回、バッハの曲の構成に従って、全体を48シーンと決めていたという。そうした構成的な拘束があるために、いい意味でシーンの作り方が粗くなり、普段は書かないようなシーンも入った。そのことが、物語の力を強めているように思える。
 岡田氏によれば、日本人にとって、コンビニという場所は、すでに「魂」や「心」になっている。人々はみな、しょぼいまま、そこはかとなく狂気をはらんでいる。俳優たちがそれぞれキャラが立っていて、その不協和音も作品の魅力になっている(発声法からしてバラバラだ)。
 かつての超リアリズム的な高度な技法の上に、今後さらに、物語(ドラマ)の力や、神話性・宗教性が上書きされていったら、どんな世界が開かれていくのだろうか。今はさらにその先がみてみたいと思った。