佐藤友哉『フリッカー式』



フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)

フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)

 佐藤の第一作。
 まず文体の問題。その稚拙さ・クズさ・饒舌さが言われる。設定もギミックも、講談社ノベルスで「ミステリ」の形式を取るが、ミステリの文法を全く無視し、予知や超能力が頻出するがこれをSFと呼べばSFに失礼だ。文学/マンガ/ゲームの断片的イメージの寄せ集め。もちろん従来のリアリズム(純文学?)ではない。しかし「物語」の廃墟と呼びうる上等さもない。だが「わざと」ガラクタ=ジャンクを装ったにしては、妙に切迫感がありすぎる。この切迫感の質を問わねば、わざわざ何かを述べる意味もない。
 リアリズムでもジャンクでもなく、単に佐藤の生活的な《リアル》。その意味で、東浩紀の評は正しい(http://www.hirokiazuma.com/oldinfos/diary2002.html)。しかし、そこに「目新しさ」を見るのもおかしい。単なる生存の条件だ。それは特定の年代(八〇年生れ)、特定の地域(北海道郊外)に規定される。そこまでは誰も同じ。問題は、そんな年代や地域の規定性を打ち砕き、彼が固有の「時」を、固有の「場所」をかちとったか否かにある。


 『フリッカー式』が描くのは、「ぼく」がいかにダメで最低な奴か、だ。
 普通、「ダメ人間」の自分語りは、自分がいかにダメかを延々と饒舌に語り続けることで、逆説的に、最後にそれを「逆転」させる下品な下心を持つ。自分はこんなに自分のダメさを自覚し苦悩し続けている、それ故ほんとはダメじゃないんだ!(君ならわかってくれるよね?)と。「小説」という三人称形式の導入は時にこれをメタ的に強化する。三人称では、一人称の「私」の語りのメタレベルに、第三者の視点を導入できる。「私」の再帰的自意識では決定不能な自分の正当性を、第三者の語りに代行させ、自意識の空転を止め、かつ「私」の全能感を肯定させる。太宰治人間失格』はその典型。佐藤が小説の形式構造のレベルに鋭敏なこと、「取りあえず」とは言えミステリ構造に拘ったのは、たまたま応募先がメフィスト賞だった、という次元だけではない。
 しかし佐藤の小説は、その自慰的な「逆転」を、丸ごとさらなるダメさに陥没させる。というか、その逆転の刹那にこそ、さらに自分のダメさ・最低さ・ひどさがむき出しに露出する。そんな荒涼としたフリージング・ポイントを志向する独特の感覚がある。明日美や「突き刺しジャック」の視点が導入されるものの、ほぼ公彦の一人称小説と言っていい『フリッカー式』には、特にその構造がはっきり露呈している。


 例えばこの小説の軸には、公彦と佐奈の妄想的な「きみとぼく」構造(セカイ系)がある。公彦は佐奈の妹性に萌える。この構造はオタクどもの凡庸な想像力(だがそれは虚構の世界だけでなく現実の性愛関係の中で、明確な犯罪としてではなく隠微なプチDVとして他者を浸蝕し、何かをじわじわと隷属させていく)をなぞったに過ぎない。
 しかし、まさにそれゆえに、最後に、この「きみとぼく」構造そのものの欺瞞性(公彦の一方的な思い込み=妹愛の無様さ!)を徹底して、容赦なくあらわにする。ラブコメ的=『うる星やつら』のごとく、付かず離れずに男女がいちゃつき、互いの欲望を宙吊りにし続ける余裕などない。
 事実、この点でこそ公彦は、徹底してサイテーのクズ野郎だとわかる。誰もが吐き気を覚えずにはいられないだろう、こいつには。
 公彦は、オヤジ3人に強姦された妹を慰めることもせず、身勝手な処女幻想が壊されたと落胆して佐奈を殺し、しかも屍姦をくわえ、しかも殺人+屍姦の事実を記憶から抹消し、しかも全ての罪を(オヤジ3人ではなく)オヤジどもの娘に被せ、誘拐し監禁し、怒りにまかせて一人を撲殺する。
彼自身それを物語の最初から自覚しており、故に多重人格の別人格として兄・創士の人格(常識=超自我)を独立させ、物語のところどころで最初からネタバレ的に彼の罪を読者に明かしている!(妹とやっただろ、殺しただろ、と)。村上春樹海辺のカフカ』のカフカ少年と類似するが、公彦にはカフカ少年のように「タフに成長したい」という教養小説的な欲望や志もない。
 そしてこれら一連のアクション自体が、他人の陰謀に体よく操られた結果であり、つまり彼は「物語の主人公」ですらなく、他人の物語に登場するひと山いくらの脇役・ザコキャラでしかなく、しかも(彼自身知るよしもなかったが)妹と無事に?心中することさえ出来ず、物語の最後、妹佐奈はちゃんと生きていることが判明する(公彦が殺した佐奈と生き残った佐奈、どちらがオリジナルでクローンかは分からないが)。言葉ではなくこの「事実」がひらくチグハグさ、痛み、「ぼく」の人生を徹底的に愚弄しあざわらう容赦なさの中に、佐藤が拘る原点の感覚がある。
 その感覚が、彼の独特の「構造」への感受性に、そして文体の稚拙さ・クズさ・饒舌さ(の切迫感)へと連結している。