黒沢清『叫』



 黒沢は「Jホラー史上最恐」をねらったのかもしれない。


 ありふれた幽霊物語ではある(『ドッペルゲンガー』『LOFT』のように、複数のジャンルが奇形的に組み合わさっているわけではない)。しかし、葉月幽霊(赤い服の女)は、もう一般的な、Jホラー的な「幽霊」のイメージをだいぶ過剰している。むちゃくちゃ変だ。
 地震と共に現われる幽霊なんて普通おかしいだろう、というだけではない。最初に役所の部屋に現れたとき、葉月幽霊が普通にドアから帰って行ったときは、ひっくりかえった。超スローでゆっくりゆっくり近づいてきたり、壁の亀裂を破壊しながら登場したり、部屋の片隅でしくしく泣いたり、役所をベッドに押し倒したり、団地からふいに飛び降りたり、空を飛んだり(この飛び降り→飛行シーンがマジやばい。「えーっ?!」と叫んでしまった)、高飛び込みのように天井から垂直落下してきたり……。ドッペルゲンガーが少しも「ドッペルゲンガー」の通常のイメージに収まらないように、葉月幽霊はちっとも「幽霊」の通常のイメージに収まらない(他方で小西幽霊の「赦し=忘れていい」の過剰さも、異様なものがある)。今までの黒沢作品の幽霊たちと比べても、異様に多様な運動性=現れ方に満ちている。葉月幽霊に固有の原則が何であるのか、そもそもそんなものがあるのか、全くわからない。『ドッペルゲンガー』のドッペルゲンガーの動きはたんにジャンルの常識をお遊び的にズラしてい感じだが、赤い服の女は、あたかも「現実」そのもののように多様だ。


 オダギリジョー演じるカウンセラーは、役所に「夢の中に現れる幽霊は真実の声だ」云々と語る。カウンセリング室には、役所の他にも若い交通課の警官がベッドに寝ていて、夢の中に現れる幽霊にうなされている。彼は過去の事件で、自分は一つの交通事故の処理と法的手続きを間違えたかもしれない、と心のどこかで思っている。その「間違えたかもしれない、取り返しのつかないことをしたかもしれない」という不安が、幽霊となり、夢の中に反復的に出現し、本人を苛む。心理的な罪悪感ではない。自分は間違った。自分の脳(無意識)は、そのこと(真理)を知っている。でもそれを見たくない。人は自分の「真実」を絶対に直視できない。真実を直視できるのは狂った意識だけだ。自分の過去の間違い=罪=真実を、正面から見つめることは誰にもできない。耐えられないのだ。だからそれを最初から見なかったことにし、忘却し、記憶を抑圧する(オダギリのカウンセリング=夢分析ですら、むしろ、真実の記憶を抑圧・忘却するための技術に見える。事実、後半、オダギリは役所の元に回帰する幽霊を手に負えなくなって、取り乱し、役所を精神分析的空間から締め出して、役所の夢なんて「なかったことにする」)。
 しかし、真実=幽霊が完全に忘却されることはない。じゃあ、どうすればいいんですかね、と役所は聞く。オダギリは答える。それになるべく「慣れるしかない」と。真実=幽霊は間違えない。繰り返し回帰し、必ず「宛先に届く」(ラカン)のだ。人はそれに慣れるしかない。幽霊の定義とは、その人がその人の人生の中でいちばん「見たくないもの」そのものなのであり、だから役所は、「ああっ」と叫びながら、何度も、大きなみぶりで、幽霊の正視を避けようとする。


 しかし、葉月幽霊はなぜ役所たちにとりつくのか。呪いの犠牲者の共通点は何か。
 その理由は驚くべきものだった。
 彼女の呪いに襲われた人々は、みな、15年前、あるフェリーに乗っていた。そのフェリーからは、戦前からある古い療養所の建物が、一瞬みえる。生前の葉月は、そこに閉じ込められて不幸な一生を終えた。フェリーに乗った人々は、療養所の建物の窓から外を眺める葉月と、一瞬だけすれ違っている。眼差しと眼差しがすれ違っている。しかし、もう「偶然」とすらいえないようなその一瞬のすれ違い、断片的な《偶然》のために、人々は解除できない呪いにかかってしまう。あなたは私をみつけ、私はあなたを見つけた。それなのに、みんなわたしをみすてた。わたしを見ていたくせに。あのままずっと待ち続けて、誰からも忘れられて、私は死んだ。葉月幽霊は、そう訴える。
 『呪怨』の怖さ、というより凄さは、一度動き始めた呪いを永久に誰も止められず、関係する人々は全て無条件に呪いに感染し、まっとうにふるまおうが、霊能力をもっていようが、事件から降りようが、誰一人呪いから逃れることはできない、という平等さ=理不尽さにあった。しかし、その理不尽な呪いには、まだ、「呪いのかかった家」という場所(トポス)的な根拠があった。

 しかし、『叫』の呪いには、もはや『呪怨』的な場所的根拠すらない。15年も昔、ほんの一瞬すれ違っただけなのだ。当事者たちに何らかの責任があるはずもない。何の意味も理由もない。避けようもない。しかし、赤い服の女の側は、克明に覚えている。視線の意味の絶対的な非対称性=すれ違いがあるのだ。正確には、フェリーの人々の脳自体は、赤い服の女の姿を記憶しているのかもしれない。しかし、それは、大半の不用な記憶群と共に無意識に沈殿=背景化されている(だから役所は女から問い詰められ続けると、かすかにその記憶を思い出す)。忘却の回路と記憶の回路の圧倒的な違い。
 『アワーミュージック』のゴダールとオルガは、正面から出遭うことなくすれ違うが、そこには「すれ違いによる間接的な出遭い」(切り替えしショット)という特異点があり、だから、ゴダールはオルガの存在を「悲劇」として、『アワーミュージック』の構造の中に美しく埋め込んだ(『アワー・ミュージック』は、地獄篇/煉獄篇/天国篇という構造の中に、生前のオルガの生の「哀悼」を、形式的に埋め込んでいる)。『叫』の葉月幽霊は、オルガが「悲劇の少女」のイメージにとどまらず、一瞬すれ違ったゴダールのことを永久に呪い続けるようなものであり、天国編が地上に地獄として逆流し、あふれ出していくようなものなのかもしれない。そこでは、もう、地獄/煉獄/天国の区別がつかない。


 では葉月は、なぜ他者を無差別にうらむのか。
 彼女の存在は世界の誰からも忘れられている。すべては忘れられてしまった。そもそも、目の前にいる人すら、誰ひとりわたしを見ていない。なら、みんなリセットして、なかったことにしてやる。このわたしが、わたしがこのわたしであることそれ自体が全部なかったことにされていくなら、「なかったことにされたこと」すらなかったことにされていくなら、お前らの言葉も存在も全部平等になかったことにしてやる。彼女はサバルタン中のサバルタンなのだ。真実の声は存在しない声、絶対的に他者から存在させてもらえない不在の声としてある。しかし、ほんとうは、それこそが、目の前にあるはずの真実=声なのだ。


 湾岸地帯は、都市計画の無理がたたってか、また繰り返す地震のためもあり、ゆっくりと液状化しつつあり(冒頭の犯行現場の異様な美しさ!)、あちこちで海水が染み出し、水溜りとなっている。建物も人もゆっくりと消えつつある。最初の方に、小西が窓の外をみて「あ、また空き地が出来てる」と言い、役所が「もう何回か地震があったら、このへん全部海に戻るんじゃないの?でも案外みんなそれを望んでいるのかもね」と答える場面がある。『叫』において「海」は全てを侵していく原理としてあるが、正確にいうとこれはぽつぽつと断片化し水溜り化した「海水」であって、巨大な「海」ではない。つまり例えば『ユリイカ』のような、「全てを無=忘却に返す大いなる海」ではない。『叫』では、まだら状に記憶が侵食されていくアルツハイマーのちょうど逆のように、過剰な「記憶」という極小の粒子が人々の精神にボツボツと穴を開け、侵食する。


 もちろん、黒沢的世界では(理由はないがとにかく)「二人」の幽霊やドッペルゲンガーが同時に現れるように、『叫』の幽霊も二人いる。葉月の幽霊と、小西の幽霊。役所は実は、小西を、半年ほど前に殺害していた(葉月幽霊の呪いのためだろう)。役所の団地の一室で、既にミイラとなっている。しかしそのことは役所にとってもっとも見たくないもの、思い出したくないものであり、彼はそれを記憶から排除し、忘却している。小西のミイラがある部屋は、隠し部屋でも生活動線の死角でも何でもなく、普段の生活の中でいつも見えているはずの部屋だ。襖も開いている。しかし、もっとも目の前にある真実=遺体に、役所の精神は気付けない。盲点は隠れた場所ではなく、明らかな目の前にある(カウンセリングルームの外に出、日常生活の最中に帰らねば、人は無意識=真実=見たくないものに気付けない)。『叫』は徹底的に役所の主観に写ったセカイを描く。純化された想像界。しかし、だからこそ、彼の自意識は、その球体の外にある何か、得体の知れない不安に苛まれている。幽霊=真実の声を抑圧しているからだ。あの叫び声は真実からの声である。
 役所が自分の殺人をようやく思い出したとき、小西は「しかたないよ。うらんでなんかない。あなたにはあなたの未来があるし。だからもうわたしのこと忘れて」と、役所を無条件にゆるす。
 葉月幽霊が他人にどんなに卑小な記憶であれ絶対に覚えていることを強制し、忘却を赦さないとすれば、小西はむしろ役所に絶対的な忘却(すべてを忘れてよい!)を強制し、すべてを赦そうとする。役所は「もうみてみないふりをすることはできない。過去を見捨てた、その責任は重い」と拳銃で自殺しようとするが、小西はそれを優しくとめる。そんなことしないで、と。しかしこの過剰なゆるしもまた、人間の精神が受け止めるには、あまりに過酷なものだ(『アカルイミライ』で藤竜也オダギリジョーにふいに「君を許す」と言った時は、まだ、親世代が子世代を許す、子世代=フリーターどもがいかにダメでわがままでも許す、という感傷的な部分があった)。役所はむしろ幽霊からゆるされることに耐えられない。人は過去の真実に耐えられないように、過剰な許しにも耐えられない。いっそおれをうらんでくれ、と役所は小西幽霊に懇願する。どうしておれだけが?と。なし崩しの忘却と、小西幽霊のゆるしは、酷似するが同じものではない(海/海水の微細な違いのように)。


 ただ、二人の幽霊を図式的に分離することもできない。実際、葉月幽霊も役所を「あなただけをゆるします」とゆるすのだし、小西幽霊の過剰なゆるしかたは、ゆるさないでうらむよりもさらに役所を追い詰め、苦しめることになる。真にゆるすことによって他者を真にゆるさないのだ。葉月と小西は一度も出会わないし、映画の中ではすれ違うことすらないが、全く出遭わないことによって不気味につながっている。


 『キュア』は(サイコものをジャンル的にふまえ、また『エクソシスト』を想起させるカウンセリング場面の導入にも関わらず)、象徴界機械的原則)だけが機能しているような非人間的な世界だったと思う。私の欲望は常に先行する過去の他者の欲望であり、私の言葉は他者の言葉でしかない。だから役所が最後に辿り着く廃墟には、たんに空虚がひろがっているだけだ。同じ幽霊ものの『回路』もそうかもしれない。『叫』は違う。象徴的=抽象的=非人間的な回路ではなく、生々しい「現実」だけがある。『叫』における現実とは何か。記憶と、忘却(赦し)である。


 ゴダールも「同じ素材と同じ構造の話をひたすら繰り返す」人だけれども、やっぱり、何かと何か(それ自体はとりわけ新奇なものではない素材)をふいに組み合わせる時の大胆さがすごくて(パレスチナとインディアンとか)、一方、黒沢にはそういう空間や時間のひろがりはない。ゴダールよりもさらに狭いし、手持の材料は貧しいし、パターンもほとんど同じって感じだ。『叫び』は、その狭さ=貧しさ=同一性をいつも以上に純化して煮詰めたようなところがある。


 最後にまたひっくりかえしてぜんぶ台無しにしちゃうんじゃないか、と途中はらはらしていたけど、最後まで異様なテンションでひっぱっていった。一度見ただけだし、細かい部分で気になったところももう少しあった(特に前半部のぼんやりした光の異様な美しさ、いたるところでゆっくりとスイングしている電灯の不気味さ、など)が、とりあえず今はこれくらいにしておく。


 ここまでやってしまったら、「ホラー」はもう撮れないのではあるまいか。
 この先に何があるのだろうか。