青山真治『レイクサイドマーダーケース』

レイクサイド マーダーケース [DVD]

レイクサイド マーダーケース [DVD]

 青山真治レイクサイドマーダーケース』がDVDでレンタルされていた。借りて観た。
 (ネタバレを含みます)


 全般的印象。「シンプルな(よく出来た)推理小説の物語構造」があり、その周りに、物語とは異質ないくつかの細部(眼の主題、垂直的なカメラ、頻出するオフィーリア的死体のイメージ、ホラー的描写、ホテルの窓から見える紫色に染め上げられた早朝の風景、核心的な時にふいにゆっくりと横切る車のライト、消える煙草の吸殻の謎、等など)がちりばめられている・・。そんな感じ。
 ただ、後者の細部群をシネフィル的に論じても、何かが出て来る気が今はしない。眼の主題/水に浮かぶ女性/予知/青で統一された色調など、随所にスピルバーグマイノリティ・リポート』への参照を感じるが、『マイノリティ・リポート』の「眼」の隠喩の気味悪さ、精神分析を施さないと落ち着かない感じ、物語の動力の歪み(ヒッチコックや『アンダルシアの犬』を継承?)は、『レイクサイド』からはちょっと感じられず、今回の青山さんの作品の、このまとまりのよさはなんだろう、と訝しく思った。


 最近の青山作品は、血縁的家族から離脱と放逐を強いられた人々が、言葉にならない言葉を積み重ねる過程で、暫定的に空虚な家族=関係を切り結んでいく光景を描くのだが、今回の作品は逆で、娘を心底思っているが血の繋がりはない父親(役所広司)が、「本当の親」になるまでの物語と言えば言える。物語の軸には、「人間世界の法」(殺人は許されない)と「善悪を超える(家族の)法」(子どもの受験と将来のためなら殺人は隠蔽されるべきだし、親はそのためなら何でもするべき)の言わば『アンチゴネー』的な対立があるが、その間に真剣な葛藤や火花はあまり生じない。後者の価値観が3組の親たちと塾講師(豊川悦司)を排他的に一体化させ、唯一「お受験」的勝ち負けの価値観に違和感を抱き、その点で聡明な娘とも無言の信頼関係を築いていたかに見えた役所も、最後は曖昧な「子どものためならなんでもする」共同性へと、自発的に――なし崩しに?――参加する(義理の父親から「本当の」親への変化)。
 かつて自分も受験戦争の最前線を戦い敗残兵よろしく今は逆に教官役になった豊川は、「子ども達があなたがた親たちの醜さを知らないはずがない」と親たちを糾弾し、しかし「別にぼくは自分の親を憎んではいないが、ただ悲しい、あなた方がその悲しさを知らないとは言わせない」と叫ぶ。それは批判というより、自分を含めてどうにもならないというシニカルな諦念であり、「親の醜さ」「悲しさ」によって結局彼らは曖昧に癒着し、一人の女性を暴力的に殺害し、死体を残虐に毀損した上で忘却の底(湖=無意識)に沈め、全てをなかったことにする。


 作品では親たちが、犯人=子どもたちの罪を無条件に、自分勝手な身代わりとしてかぶるが、子どもたち(の誰か?)の殺人の具体的な「動機」は詳しくは追求されず、というか「子どもの心はわからない」という不可知性が既に自明の条件とされ、「何を考えているかわからない子どもたちを、にもかかわらず、あるいはそれゆえに、絶対的に肯定する」というねじれたロジックが「本当の親」の取るべき選択肢とされるが、これもイロニーというよりは「自然な流れ」に準拠していて、子どもたちの本当の不気味さが描かれるかと言えばそうでもなく、唯一、役所が豊川に迫る場面で、子供達が規則的に並んで歩いて来てそこに(たぶん意図的に)介入し、議論を打ち切らせるシーンは、例えばカーペンター『光る眼』の子どもたちの規則的な行進の不気味さを少し思い出させるけど、カーペンター作品に様々な形で出現する「他者」の不気味さが、「子どもたち」と「物体X」が全く等価であり、かつこの他者は内面も倫理も何もなく、かといって邪悪でさえなく、たんに黙々と自分たちの生存を続けるサバイバルを至上原理とするがゆえに人間たちと殺し合い・対立関係に入らざるをえない点にあるのにくらべ、『レイクサイド』の子ども達は、それ以上の不気味さを垣間見せることはない。
 というか、ある意味でこの別荘の空間には、はなから子どもは存在しない。殺害された女性だけでなく、この作品が徹底的に排除し殺し湖の底に沈めているのは、「子どもたち」なのかも知れない。


 が、こう書きつつも、『レイクサイド』を詳細に分析して(それが図式的精神分析であっても)何が出てくるのか。わからないのだった。*1

*1:【追記】『レイクサイドマーダーケース』については他の人の評価・論評を読んだことがなかったのだけど、古谷利裕さんの一昨日・昨日の「偽日記」(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html)や色んな人のコメント集(http://www.netlaputa.ne.jp/%7Ek-moto/VoiceTheLakesideMurderCase.html)を読んだ。古谷さんの《この映画には、大人たちとも子供たちとも異なる視線で物語を見つめている、別の超越的な視点の存在があるように感じられてくる。そしてこの、誰のものとも分からない視点の存在が、『レイクサイドマーダーケース』という映画をミステリというよりはむしろホラーに近い感触をもつものにしているとも思えてくるのだ。だとすると、この視点はおそらく「殺された者」の視点だということになるだろう。殺された者とは、たんにこの映画で殺された役所の愛人というだけでなく、冨永昌敬が、子供たちもまた、新たな「彼女」を葬るために再び湖に訪れるだろう、と書いている、その(過去から未来にかけて殺されつづける)「彼女たち」の視点だ、ということになるのではないだろうか。》という「視線」の謎の分析は鮮やかだと唸らされたけど、他の人々の褒め方、「青山さんのどきっとさせる傑作『レイクサイド・マーダーケース』は、小説『レイクサイド』というご本尊の存在をすっかり忘れさせてしまうがごとく、観る者をその恐ろしいクライマックスの虜にしてしまう映画である」(冨永昌敬)「『エンバーミング』に並ぶ青山監督の問題作!こういう作品を待ってましたよ!」(中原昌也)「こう言ってよろしければ、『レイクサイドマーダーケース』は、青山真治監督作の中で最もぎらついている映画である。(略)確実に、三回は見ないと気が済まなくなるような、恐るべき作品である」(阿部和重)云々は、心の底からの「本気」なのか。素朴に訝しく思った。異質な他者=正論の闖入を共同で「足並みを揃えて」排除する『レイクサイド』の親たちの姿と、仲間うちで過剰な褒め言葉を増殖させ「深読み」せよと迫る映画人たちの姿は、鏡像的に酷似するのでは。するとここで排除される「女性」「子供たち」とは、誰だろう。青山さんは無条件で肯定される「子供」なのか?青山さんの意志はそんな善意と諦念と悲しみで否定神学(進学?)的に結びつく「共同性」の暴力への自己言及を含むのか。いや、安易な類推だが。