あたりまえの・責任の・臨界(3)

 過去の記事(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050615/p2)に「ぼくも、精神障害があってもなくても、犯罪の責任はひとしく平等に問われたほうがいい、と今は考える。でも、その「平等」はどこに求められるのだろうか」と書いた。また「当事者が生きる「生活」のありかたの全身を問わず、刑法39条という切断面だけで精神障害者犯罪の問題をみれば、ことの本質をぼくらは見損ないはしないだろうか。素朴に、あらためてそう思うのだった」とも書いた。


 しかしこれには、重大な盲点=ブラインド、現実認識の不足があると思い知らされた。端的にそれは、裁判とその近傍(取調・精神鑑定・裁判後)をめぐる過程について、の認識の不十分さだった。「精神障害があってもなくても、犯罪の責任はひとしく平等に問われたほうがいい」という「平等な責任」を求める議論は、「公平な裁判(とその周辺)」が確保されていて、初めて、かろうじて成り立つ。後者のレベルを抜いた責任論は、例えば都市部の高学歴男性が、障害者/外国籍者/女性/地方出身者/を強いる現状もろくに知らず、自立主義の普遍性(誰もが経済的に自立すべきだ!)を唱えることのマッチョな下劣さと、よく似ている。自分の認識が何を見逃していたか、検証せねば。


 まずは、滝川一廣佐藤幹夫の論(『刑法39条削除せよ!是か非か』)にふれ、以下少しずつ確認していく。(続く)