佐藤幹夫『自閉症裁判』 あたりまえの・責任の・臨界(2)

 これはすごい本です。
 ぜひ皆さんも読んで下さい。


自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

 この本から一部分を取り出し、紹介するのは難しい。この本の構造が、省略を許さない。一つ一つの言葉がそれぞれに重い。かつ、重いそれらの言葉が、緊密にからみあって、星座を形作っている。*1


 佐藤氏の視線が向うのは、人々の言葉の内容・わかりやすさ(「すらすら」…)ではない。当事者・関係者達をそれぞれに強いる沈黙・言い淀み・停滞…の水準だ。その大事さを見逃すまい、とする。そしてそれゆえに、言葉の水準、裁判の過程がむしろ大切にされる。表面にあらわれた言葉の水準と、表面にあらわれない言葉以前の言葉の水準が、緊張をはらみながら、重層的に不協和音としてつらねられていく。


 「この本は省略を許さない」と述べたが、一つだけ例をあげたい。
 佐藤氏は、裁判=言葉の闘争の過程を執拗に記述する。引用が多い。法廷内での被告人・検察側・弁護人・裁判長・鑑定人・証人の言葉を引用し、また事件に関する供述調書・新聞記事・談話・日記・など、様々な資料を引用する。
 そこから、警察・検察・裁判官が作り出す犯人像のわかりやすさ、警察官達がいう「訊かれたことには、なんでもすらすら答えた」というその「すらすら」、「凶悪な犯人による刹那的な犯罪」というわかりやすいストーリーに対する違和感を執拗に述べる。


 障害特性を知ることの難しさ。障害者がこの国で強いられる圧倒的な不遇の事実。レッサーパンダ帽男は、高等養護学校の「就職組」から早々に脱落し、全国を放浪するが、「ホームレス」としての生存技術も体得できなかった、「要するにそこもまた「人間社会」だった。(略)それこそが男がもっとも苦手とするものだった」。それ以外の福祉の、どこにもひっかからなかった。しかも、彼自身が自分は「障害者」ではないと述べ、養護学校卒業後、障害者手帳を捨て、養護学校卒業の過去を捨てた(履歴書には中卒と書いた)。

 ここにあるのはなにか。福祉の支援からこぼれ、家族も離散し、あるいは家出し、食い詰め、追い込まれた挙句の愚行である。刑務所を出所しても引き取り手はない、戻る場所もない、働き手として雇ってくれるところもない。ホームレスまがいの暮らしを余儀なくされるなかで、再び同様の行為をして刑務所に戻っていく。
 ここから窺われることは、まぎれもなく、知的ハンディをもつ人たちが、事実関係をうまく語ることのできないまま自白供述を取られ、裁判に乗せられ、覚束ない証言のままに刑務所に送られていく、という現実である。そして福祉が支援の手を差し伸べてこなかったという現状である。
 (略)こんなことをいつまでくり返すのだろうか。「孤立―犯罪―有罪判決―受刑―出所―孤立……」。

 一人の人間が、積み重ねて来た生活の重みを込めて、あるぎりぎりの言葉を口にする。それは時に矛盾を、動揺をはらみ、繊細な緊張に震える。消え入りそうでもある。他人からは浅薄に受け止められ、致命的に誤解されるかもしれない。いや間違いなく誤解される。でも、矛盾した言葉をありのままに口にする他ない、いや、他者から問われ、応答を強いられる過程で、どうしようもなくそういう言葉を、言葉にならない言葉を口にした。追いつめられたか、抑え続けた無意識がついに溢れ出たのか。もう自分でも判断はつかない。だが、それを口にした。
 しかし、その重みと矛盾を全てうけて、なお、その言葉を根もとからくつがえす、別の他者の言葉が――肯定/否定を含めて――もたらされる。例えば同時に、被害者家族の父親の次の言葉が引かれる。長く引用する。被害者Mさんの父親の言葉だけでなく、父親の言葉を記述する佐藤氏の言葉をも引く。

(……)父親に対し、「強い人」「冷静な人」という言葉を安易に書きつけてよいかどうか、迷う。第三者にしか過ぎない私を前に、その苦しみのほどを晒してみたところで、なにがどうなるものでもない、そのように思えばこそ踏みこらえているのだということは推測できた。私のような立場の者の取材を受け入れてくれただけでも、その強さや冷静さ、公平さは驚くべきことだと思えた。
 私の前で、少しだけ、その無念さを表すことがあった。私の元の職業に話が及んだときだった。
 「障害者だから人を殺すなどということはないでしょう。どうですか。私の職場にも知的障害をもつ人がいるが、私も、彼らのことをそれなりに理解しているつもりです。皆、懸命に働いていますよ。障害をもっているから、などというエクスキューズはできないはずです。人が一人亡くなっているのです。やったことはきちんと償いなさい、と言いたいのです。曲がりなりにも社会生活をしてきた人間に言っているのです。どこかに行くには金が必要だということを知っている、金がなくなったら交番へ駆け込めばなんとかなるということも知っている、そういう人間に言っているのです」
 慎重で、控え目な言い方ではあったが、おそらく心中は、障害ゆえに減刑を、情状酌量を、という一方に存在する言論や、弁護人に対する(そして私にも)必死の意義申し立てに違いなかった。私は黙って聞いていた。犯人の家族が困窮のなかにあった、という話題に及んだとき、次のようなことも漏らした。
 「(略)なぜ手紙ひとつよこさないのでしょうか。手紙くらいは書けると聞いています。犯人に障害があったかもしれません。家族はとても貧しかったかもしれません。しかし私は一顧だにしません。人が一人、理由もなく亡くなっているのですから、一顧だにもしません」
 そのように話すとき、やり場のない無念さが覗いていた。父親が、男の家族への不満を漏らしたのは、最初の訪問のこのときだけで、それ以外は冷静に語り続けていた。

 Mさんの父親の「驚くべき公平さ」に注意しよう。沈黙の重みに注意しよう。「男の家族への不満を漏らしたのは、最初の訪問のこのときだけ」に注意しよう。父親は、レッサーパンダ帽男の家庭事情を聞いた時、涙を流したという。でもその人が「犯人に障害があったかもしれません。家族はとても貧しかったかもしれません。しかし私は一顧だにしません」と言い切る。


 佐藤氏は「福祉の支援からこぼれ、家族も離散し、あるいは家出し、食い詰め、追い込まれた挙句の愚行」のありようを深く注視する。その矛盾を、障害当事者を強いる苦痛を見つめ続ける。しかし、それら全ては、男の「無罪」「減免」のためではない。奇妙だが、弁護士団体のスタンスも初めからそうだ。障害ゆえに罪を問わない、ではない。逆だ。佐藤氏は「法の裁きをしっかり受けてほしい」と言い切る。そして「被害者側に向き合わない加害者支援」は「無効」と言い切る。

 私の物言いは、障害ゆえに刑の軽減を、情状酌量を、と聞こえてしまうかもしれないが、けっしてそうではない。人としての「罪と罰」を求めればこそ、障害への理解が不可欠となるのであり、それなくして責任も贖罪も十全たるものとはならないのではないか。ほんとうの意味での再犯の防止とはならないのではないか。それが私の述べたいことのすべてなのである。

 男とその家族の生活の重みを受け止め、だがその先で男が「やってしまった」犯罪のとりかえしのつかなさ、罪を問う。彼が真に「人間としての」責任を負い、罪を実感し、被害者Mさんに贖罪するための道を探る。
 それを通して、二度とこんな事態を反復しないための道を探る。「粘り強く異を唱えて行く」極め付きの苦難の道を探る。


 ――だが、家族の思いは、この裁判の「長さ」をこそ、「ほんとうの意味での再犯の防止」を目指す佐藤氏のやり方を含む「迂遠さ」をこそ、やりきれなく苦痛に感じるのだ、とすれば――。父親は言う。

とにかく裁判が長い。そのことが一番の苦痛です。なぜこんなに時間がかかるのですか。一日も早く結審してほしい。そしてお墓に報告したい。(略)いつ行っても弁護士だけが、同じことを延々と話しているじゃないですか。細かいことを持ち出して、殺意はなかった、障害があった、とまるでなにをやっても無罪のようなことを言っているじゃないですか。



 ……。もちろん、今回のコメントはこの本の一面を照らし出したに過ぎない。そして、無限の矛盾をはらんだこの《事件》は、現在も続行中なのだ。


 ↓参照
 佐藤幹夫さんの運営するHP(http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/index.html
 過去の記事(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050615/p2

*1:つまらない比較をするけど、殆どが当事者の文章の引用から成り立った立岩真也『ALS』がベンヤミン的な一冊なら、《事件》に関わり・巻き込まれた人々の苦痛と対話のリミット(真空)を目指し追跡したこの本は――副題が「レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」なのは、よくある修辞ではなく、言葉の真の意味でだ――ドストエフスキー的な一冊に見える。犯罪/家族/裁判を焦点とする点では、『罪と罰』というより、『カラマーゾフの兄弟』的か。いや、これはやはりつまらない比較だ。ただ、この本の凄みをまずは伝えたかった。迂闊に接近しうる本ではない。「興味本位で傍聴に来ないでほしい」という裁判に関する副島洋明弁護士の言葉は、佐藤氏のこの本にも一面あてはまるかもしれない。しかし、ぜひ皆さんに読んでもらいたいし、多事総論を交わしたい。