メモ二つ(椎名林檎について、又吉直樹『劇場』について)



 ●椎名林檎についてのメモ


 椎名林檎の『無罪』『勝訴』は実存的ロマン主義と人工的古典主義のせめぎあいの奇跡的果実であり、しかし彼女の女性としての肉体をずたずたにし、3枚目で古典主義的な技巧に着地して(緊急避難して)、結婚出産離婚からの引退も十分ありえたけど、バンドとしての東京事変で「職業訓練」を延々と10年続けて、自己模倣と劣化コピーに耐えて、4枚目5枚目辺りではかなりの水準まで行って、その頃にようやく出したソロとしての4枚目『三文ゴシップ』はかなりよくて(ブレヒト的な「労働者」「生活者」の手触りすらある)、しかしそれよりも何よりも、5枚目の『日出処』が完全に芸術的享楽として突き抜けてしまっていて、初期の『無罪』『勝訴』の達成を更新しているんだけど、これがまさに安部政権寄りの権威的ナショナリスト、ネタがベタ、日本版リーフェンシュタール再来、等々と批判されているわけで、僕もまた、『日出処』以降の、圧倒的な芸術的享楽+政治的危うさをどうやって受け止めていいのか、まだ全くわからない。困惑するばかりである。ロマン主義と古典主義の内的せめぎあいといい、現代の三島由紀夫のような人だと思う。リベラルナチュラリスト宇多田ヒカルとは全く別のタイプの才能の持ち主なのだと思う。そもそもデビュー時に音楽業界のしがらみに散々苦しんだ彼女が、政治的世界のしがらみを好むとは思えないから、あえて政治の渦中に飛び込んで、政治の中枢において非政治的な純粋芸術を実験しているようにも見えるし、たんに無邪気に戯れて取り込まれているだけというよくあるパターンにも見えるし、どう考えていいのか、ほんとうに困惑と混乱は尽きない。明らかに最近の作品は、享楽において圧倒的に最高潮だから、なおさら。しかも椎名林檎の場合は、純粋芸術と言っても少しも安全安心なものではなく、極右国家主義ナショナリズムの熱狂を、ファシズム的な青き純潔の炎で焼き尽くす、という感じなのだ。初期の「東京」はモダニズム的だったが(アンチ渋谷としての虚構的な新宿というイロニー)、近年の椎名林檎が演出する「東京」は、完全に、ファシズム的な総合芸術の域にある(秩序と混沌、技術と自然、光と闇、破壊と創造、生と死の一致)。紅白の都庁のように。三島は1970年、45歳で『豊饒の海』を完成させ、擬似的クーデターと自殺という最後の最大の「作品」を残したが、彼女にとって2020年の東京オリンピックパラリンピックはどうなるのだろう。


又吉直樹『劇場』についてのメモ


古色蒼然たる「文学者」への擬態とコスプレ感が色んな意味で痛々しい。小説内の設定として、お笑い業界ではなく演劇業界を選んだゆえの、文学くささがやばいのかもしれない。又吉自身の文人になりたいという欲望と文壇・メディアの役割期待とが、悪い形で癒着し共依存してはいないか。逆に言うと、前作『火花』は、「芸人」と「文学者」のジャンル間のずれや歪さによって、そこが面白さになり、何とか小説たり得ていたということだったのだろうか。『劇場』の主人公と恋人の関係は、全く凡庸で感傷的でいい気なものであり(というか主人公の邪悪さがかなりやばく、かつ、作者がその邪悪さを「こんなにだめで滑稽な自分をさらけ出すよ!」的に救済したがっているとしか思えない、そこが本当にやばい)、それに比べると、主人公と青山の関係の方がずっと面白かった。主人公が殺伐とした罵倒を繰り返しながら青山に執拗に食い下がる感じはよかった。それでも主人公サイドにまだまだ余裕があって、それがもの足りず嫌だった。「青山みたいな痛い女に理解示す俺」的なナルシシズムをふりきれてなかった。むしろ青山(小説)の側が主人公(演劇)に食い下がり、いい気な余裕を奪い去り、根源的に脅かしていたら、どうだったろう。もっと本当の意味で、不気味さと可笑しさが切り分けられないような(文学趣味ではなく)小説的な「笑い」が生まれたのではないか。『火花』はたしかにお笑い業界底辺をめぐるある種のプロレタリア文学であり、現実的にはどんなに悲惨で貧しくても、成功者も脱落者も諦めきれない者も含めて、ぜんたいとしては全員が等しくある種の救いを与えられていた。そこには作者自身の、おそらくは資本主義以上に過酷なお笑い業界を生きる仲間たちに対する(超越論的な)優しさがあり、祈りがあった。そのような超越論的な眼差しがあるからこそ、小説としてのぎこちなさが、かえって作品に深い味わいを醸造していたように思った。現実にうまく適応できない人間たちの、その貧しく地を這う身体に宿る微笑こそが、又吉氏のお笑い芸人としての可能性に新たな光を与えてもいた。しかし『劇場』はどうだろう。