『宮崎駿論』の書評・記事など

 『宮崎駿論』の書評・記事などを随時更新していきます。


 ●中川康雄氏「いつか子どもだったはずのすべての大人たちへ」、http://miraikairo.com/?p=2347
 ●中島岳志氏「書評」(「毎日新聞」2014年5月20日)、http://mainichi.jp/shimen/news/m20140518ddm015070029000c.html*1
 ●石井敬記者「書く人」(「東京新聞」2014年5月25日)、http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/kakuhito/list/CK2014052502000171.html
 ●碓井広義氏「書評」(「週刊新潮」2014年5月29日号)
 ●大澤信亮氏「書評」(「産経新聞」2014年6月8日)、http://sankei.jp.msn.com/smp/life/news/140608/bks14060813300010-s.htm*2
 ●浅尾大輔氏「子どもの目」(「すばる」2014年8月号)
 ●大澤信亮氏「私信」(「文学界」2014年8月号、掲載拒否)、http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20140707
 ●多比良考司記者「越境者たち」(共同通信、2014年7月〜)
 ●速水健朗氏「わかりやすくない大作家と向き合う」(「宝島」2014年8月号)
 ●九龍ジョー氏「切断線に差し込む未来」(「クイック・ジャパン」115号)
 ●白井聡氏「宮崎駿論 作品から自然信仰を読み解く」(「信濃毎日新聞」9月21日)
 ●中島岳志氏「2014この3冊」(「毎日新聞」2014年12月21日)*3



*1:《渾身の批評がここにある。読んでからしばらく時間を置いたが、まだうろたえている。/宮崎駿は時折、絶望的で破壊的な言葉を口にする。『もののけ姫』のタタリ神に自らを見立てながら、穴という穴から黒いどろどろとしたものが出てくる感覚を語る。彼は一体、何に怒り、何を表現しようとしてきたのか。/宮崎には過剰な子どもへの思い入れがある。子どもは自然の力に内包され、八百万の神々の「となり」にいる。しかし、世界は凄惨な暴力で溢れている。薄汚い欲望が渦巻いている。そんな世界に、子どもたちは産み落とされる。そして、神々しい力は成長とともに失われていく。/どうすれば世界に立ち向かえる「内発的な力」を育てられるか。/宮崎の答えは、アニメーションを作ることだった。「子どもたちに対する絶対的な加害者としての自覚が、そのまま、子どもたちに対する絶対的な愛になっていく」。しかし、それは危ない。過剰な愛は、暴力的な欲望をはらんでいる。子どもを子どものままにしておこうとする愛。残酷な世界にまみれてほしくないという先回りの愛。それは子どもに対するグロテスクな所有欲と密着している。/『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』、そして『となりのトトロ』。この頃の宮崎アニメは見事に完成している。潜在的に存在する「となり」の自然を信じ直すこと。人間の目で自然を見ないこと。人間中心主義を相対化し、自然の中に開かれていくこと。宮崎アニメは、一つの崇高な世界観を作り上げた。/次の『魔女の宅急便』は大人へと成長する13歳の物語だ。もう子どもではない。自然から切り離され始めている。主人公のキキは、トトロのようには飛べない。不安定で、時に転落する。孤独や挫折を味わう。/しかし、キキは町の暮らしに溶け込み、何とか生きていく。壮大な成功がある訳でもなく、英雄になることもない。小さな親切に支えられ、時に嫌な人とも折り合いをつけていく。物語は「落ち込んだりすることもあるけれど、私は元気です」で終わる。/宮崎アニメは着陸したように見えた。しかし、その先には豚になった中年男性の姿があった。『紅の豚』だ。自然と一体化することなど到底できないニヒルな中年男。そこには宮崎の自己嫌悪が投影されていた。/宮崎は「折り返し点」を迎える。『もののけ姫』以降、彼は「その先」に行こうと再び苦闘し始める。ラディカルな問いは、物語から整合性を奪っていく。破綻、矛盾、迷走。ストーリーは、強引な突破を続ける。「すべてが完璧に充実しきった純粋結晶としての作品は、もう、作ることができない」。そして引退。/杉田は宮崎に対して「やりきっていない」と言う。このままで終わっていいのか。宮崎は本当にタタリ神になってしまうのではないか。/杉田は高次の世界を希求する。それは醜悪な世界の対岸ではない。どうしようもない欲望の先に開かれる神々しい世界である。/杉田の批評は自己を深く切り裂きながら、前へ進もうとする。痛々しい希望と宮崎への過剰な期待を動力として言葉を紡ぐ。論理の整合性を打ち破りながら。/言いたいことはよくわかる。私の胸も張り裂けそうだ。しかし、「宮崎なら描ける」という欲望は、本当に世界を開くのか。世界は普遍的に『魔女の宅急便』の希望に落ち着くのではないか。/引退会見で宮崎は「ジブリ美術館の展示物を描き直したい」と語った。私はそんな<となりの宮崎駿>の絵を見たい。》

*2:《これを読まずに何を読むのか。そういう本である。/著者の杉田俊介氏は批評家にしてヘルパー。かつて「ロスジェネ」や「フリーターズフリー」などで若年労働問題に関わり、現在は主夫として子育て中という異色の書き手だ。著者は、我が子のとなりで宮崎駿(はやお)作品を観(み)ながら、マンガやアニメで育った40年の我が人生を振り返り、再び何かを始めようとしている。/題名に「論」とあるが、まったく堅苦しくはない。著者は肉声で語っている。社会学的な分析を抑制し、作品をダシにした時代論も排し、作家に対する感謝と期待のみを頼りに語る、堂々の作家論だ。/なぜ宮崎アニメの男たちはつねに呪われているのか。これが本書を貫く問いである。/たとえば『紅の豚』のポルコ。宮崎氏の自画像が豚であることは有名だ。少女や子供を、文字通り「食い物」にして肥える、男であるという欲望。この「出発点としての自己嫌悪」を、今までどれだけの人たちが本気で考えただろう。美少女の造形や、稀有(けう)な垂直感覚や、秀逸な物語構造ではなく、それらを生み続けた絶望に寄り添った者は。終わりなき自己嫌悪ゆえになおさら、自分ではない誰かのために何かを作ろうとした、厳しい精神を受け継いだ者は。/著者は、宮崎作品を丁寧に読み解きながら、この絶望を救う希望を見出そうとする。/理論的なポイントは、そうした姿勢で作られる宮崎作品が、比喩ではなく、アニメーションの語源通りに、物質に命を与える行為と等価なものとして論じられるところだ。/生きているということ。目の前の自然や動物だけではない。ありとあらゆる動いているものへの感謝。許されない欲望を持ってしまった自分ですら。宮崎氏がそれをやりおおすために、著者は、マンガ版『ナウシカ』の協働作業によるアニメーション化、その超高齢出産を提案している。/だが、本当は、そういう理論的な考察や提言より、最終節「私の言葉、私の物語」こそ読んで欲しい。杉田氏がどんな人間かがそこに示されているからだ。この時代の信じられる書き手がここにいる。》

*3:杉田俊介の『宮崎駿論』は、批評の傑作だ。杉田は稀代の作家を的確に分析しつつ、自分自身の生き方を問い直す。その筆致は時に激しく、温かい。読む者は、時代に自己の瘡蓋(かさぶた)を剥がされ、痛みを直視することを促される。『すばる』6月号の「よわさとやさしさ――長渕剛試論」も傑作だ。なぜ杉田はこれ程までにやさしくなれるのだろうと思う。それは自己の根源的な無能力と向き合う勇気を手放さないからだ。真っ直ぐうろたえることは、案外難しい。》