スティーヴン・スピルバーグ『宇宙戦争』

 ・・くたくたに疲れてしまった。この人はマジおかしい。そう思った。最近よく「スピルバーグヒューマニズムだけではなく、非人間的な地獄絵図への欲望がある」云々という議論を見るけど、今回は心底そう思った*1通奏低音は「うるさい」。破壊に次ぐ破壊の騒音もだが、人間の悲鳴も、何よりパニック傾向を持つ娘の悲鳴がうるさい。これは意図的だろう。斬新なイメージが次々と積み重ねられ(かったるい部分などを含みつつ)不連続にすべっていく、というスピルバーグ的展開は損なわれていないが(川を素早く流れていく無数の死体、燃え盛りながら疾走する列車、夜の森の中を雪のように降る衣服、人血を吸い大地を染める謎の植物群…)、スペクタクルの楽しさというより、不快感が刻々とつのっていく。これも、意図的なはずだ。


 特徴は、徹底的な内在性。人々は意味不明な破壊を前に、訳も分からずひたすら逃げ回る他なく(だが何処へ?)、状況を見通す情報が全く与えられない。ラジオもテレビも軍も正確な情報を流せない。事実、観客は、ウェルズの原作による事前の情報、また最初と最後の俯瞰的ナレーターがあることで「物語」の外枠を掴めるが、それなしでは(特に登場人物たちにとっては)「宇宙人が世界中に侵略してきたが、細菌のせいで半ば自然に自滅した」云々というマクロな状況は完璧に不可知だったのでは。難民状態で逃げ惑う人々の群れの中を風評的に飛び交う情報も漠然とし(「アメリカは…」「ヨーロッパは…」「アジアは…」「大阪は…」)、真偽は定かではない。


 見ながら頻りに思い出されたものが、二つある。
 一つはアンゲロプロス『エレニの旅』。『エレニの旅』もまた意味不明な歴史状況に徹底的に翻弄され、翻弄の中で更に難民同士の暴力にさらされるという物語の動力を持つが、『宇宙戦争』もそうで、スピルバーグは今までにも『ジュラシックパーク』など、血も肉もある人間が「人間を絶対的に超える暴力的な他者」に手も無く虐殺され続ける映画を撮ってきたが(『シンドラーのリスト』『プライベートライアン』の虐殺も、良くも悪くも、人為を超え神話的な「神々の暴力」の相貌を持つ)、今回はその構図がぎりぎりまで徹底されており、しかもそれをアメリカ国内に反転している*2。人々には『ジュラシックパーク』ほどの抵抗手段も主体性もない。見やすいが、逃げ惑うアメリカ国民の姿は、バクダットその他のイラク国民の似姿なんだろうし、途中に宇宙人の攻撃と火の海の中で「テロリスト?」「原爆?」という台詞も出てくる。ある種の《相互性》(やったらやり返される)が導入される。しかし、当然『宇宙戦争』を政治的公正さのみで見るのもおかしい。


 見る前は、荒唐無稽な「暴力」とヒューマンな「家族愛」が同時に存在し、噛み合わないまま共存していくタイプの映画なのかと想像したけど(『A.I』や『プライベートライアン』の様に、或いはナイト・シャマラン『サイン』の様にhttp://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050628/p4)、これはぜんぜん見当違い、『宇宙戦争』ではアメリカ的な「家族愛」は何の意味も持たず、抵抗のすべにも美しいカタルシスにもならない。トム・クルーズは殆ど父親らしい主体性を発揮できないし、最後にボストンで結局家族は無事に出会うけど、たんに、状況に押し流され気付いたらたまたま家族が無事に生き残っていた、たまたまそこに集まっていた、というぽかんとした感じで、何の感動も浄化も生まない。なんだろう、この感じは。監督が投げやりというのでももちろんない。


 頻りに思い出されたもう一つは、小林秀雄の「国民は黙って事変に処した」という有名な言葉だった。なぜだろう。歴史も文脈も異なる。単純に同一視も、比較すらできない。わかっているけど、『宇宙戦争』を観ながら頻りに思い出した。わけもわからず、絶対的な不可知な暴力に絶え間なく翻弄され押し流され、押し流されつつ生き延びていく、たまたまだが生き延びた、その過程には何か「よいもの」が含まれる気がしたのだった。うまくいえないけど、『エレニの旅』の時も感じたけど、「たまたま生き延びた」はたんに「たまたま」でも「生きててよかったね」でもなく、いやそれは無論それだけで素晴らしいのだがそこにはとどまらず、固有の抵抗原理へと繁茂していく何かの萌芽を含む気がしたのだった。とか、何かいつも肩をいからせた偉そうな言い方になっちゃうんだけど。しかし、本当にくたくたに疲労した。月並な言い回しだけど、皮肉でも何でもなく、スピルバーグは心底恐ろしい人だと思った。*3

*1:【修正】ちょっと表現的に誤解を生みそうな箇所を、一部修正した。

*2:少し前にモーガン・スパーロックスーパーサイズミー』をDVDで見たが、ここで告発される「マック的なもの」、グローバルなファストフード文化は、巨大な資本に支えられ、増殖性と中毒性を持ち、企業や学校を含め日常生活の隅々まで瀰漫する、という意味で、カーペンターの『ゼイリブ』ではないが、巨大な「宇宙人的なもの」と似ている気がした。逆に宇宙人の方がマック的なものの象徴かも知れないが。特に子どもの生活ゾーンを侵食するもの・・。しかし、監督のスタンスは『華氏911』的な単純な善vs悪の図式を出ず、それらを草の根的に欲してしまう自分たちの欲望の形を批判的にえぐり出せていない(『ボーリング・フォー・コロンバイン』には後者のベクトルがある)。しかし例えば、非ファストフード的な自然食や有機栽培の領域にさえ、それぞれの領域を侵食する別の邪悪さがあるはずであり、他者を叩くためにも自分の心身の日常的組成それ自体をえぐる自己検証が不可欠ではないか。

*3:スピルバーグが本当に「似たような映画をワンペアで作る」なら、『宇宙戦争』とペアになる作品が次に撮られるのか。