宇多田ヒカルのパッション(2)

Be My Last

Be My Last

 ぞっとした。
 この曲の《本体》は「あああああ」の部分にあるのだろう。歌詞はぎりぎりまで、きりつめられる。言葉はほとんど輪郭を保てず、失語と沈黙に近づく。

母さんどうして
育てたものまで
自分で壊さなきゃならない日がくるの?


バラバラになったコラージュ
捨てられないのは
何も繋げない手
君の手つないだ時だって…


Be my last… be my last…
Be my last… be my last…
どうか君が be my last…


慣れない同士でよく頑張ったね
間違った恋をしたけど
間違いではなかった


何も掴めない手
夢見てたのはどこまで?


With my hands with my hands
With my hands with my hands
私の手で be my last…


いつか結ばれるより
今夜一時間会いたい
何も繋げない手
大人ぶってたのは誰?


Be my last… be my last…
Be my last… be my last…
どうか君が be my last…



 ぼくは最初「どうか君が/Be my last」という部分を例えば「SAKURAドロップス」の「恋をして/終わりを告げ/誓うことは/これが最後のheartbreak」「恋をして/全て捧げ/願うことは/これが最後のheartbreak」と、同じタイプの言葉だと思っていた。つまり失恋=別離の痛みから新しい生と恋愛へ向き直る態度(「止まらない胸の痛み超えて/もっと君に近づきたいよ」)。あるいは「いつか結ばれるより/今夜一時間会いたい」という部分は、例えば椎名林檎「ギプス」の「明日のことは判らない/だからぎゅっとしていてね 」のような、未来は不確定だから《いま》生の燃焼をこそ肯定する、というロマンチックな刹那さを意味するのだと思っていた。
 でもそれでは「Be my last」の冒頭「母さんどうして/育てたものまで/自分で壊さなきゃならない日がくるの?」の意味がわからない。この曲では短い歌詞の中で「何も繋げない手」「何も掴めない手」のイメージが繰り返しあらわれる。この他者との断絶、恋愛の断念は、全く動かない、と思う。誤解されがちだけど「いつか結ばれるより/今夜一時間会いたい」にロマン的な感傷は全くなく、ぞっとするほど冷たく乾いた言葉で、事実直後には再び「何も繋げない手」のイメージが接続される。
 でも断念はここで終らない――ここからは個人的な推測。
 ぼくはこの曲は、恋愛を二度としない、「君で最後にさせて」(Be my last)という絶対的な断念の曲なのだ、と受け取った。「あああああ」はそんな最後の祈り、哀悼なのだ、と。「いつか結ばれるより/今夜一時間会いたい」という箇所の「一時間」から、スピルバーグA.I.』の「一日」を自然に思い出した。母親への無償の愛をインプットされたロボットのデヴィットは、母親から当り前に愛されたいがために、2000年間を海の底で祈り続け、毛髪から母親をクローンとして再生させねばならなかった。しかも、その「幸福」はただ一日しか続かないのだ。「今日は何日だっだかしら?」「今日は、今日だよ」。そしてその「一日」のあと、デヴィットはどんな虚構の生、全てが静止し凍りついた生の中で生きねばならなかったのだろう。
 「Be my last」の「一時間」は、刹那の愛の燃焼/断念からの愛の回復/別の愛への再生などを求めるための「今夜一時間会いたい」ではなく、それら全てを改めて断念するための、というか全ての愛を未来系で断念するための「一日」ではないだろうか。それが冒頭の「母さんどうして/育てたものまで/自分で壊さなきゃならない日がくるの」の意味ではないか。「私」は「自分で」、自分の手でそれを「壊さなきゃならない」。
 ぼくは「Be my last」から、そんなぞっとするような覚悟を、最後の祈りを感じた。
 そしてそれすら、「あああああ」という複雑な感情の綾を溶かし込んだ絶唱の中に、失語と沈黙に、溶けて消えていく。
 ……。