「われわれの生の無条件の肯定のために」

 トークセッション(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20051227)で「われわれの生の無条件の肯定のために」という副題が与えられたんだけど、最初に考えたのは、自分がこの定式を本当に心から信じているか、ってこと。
 「生の無条件の肯定」って最近の社会福祉系でよく持ち上げられる言葉だけど、「無条件」というのは本当に恐ろしいって思う。カントがいう定言命令、「〜せよ」という無条件の倫理的命令と同じだから。逆に言えば、無条件の命令「自由であれ」がそうであるように、生の無条件の肯定もまた、ぼくら生身の肉体を持った地上の人間にはほとんど不可能な事柄かもしれない。これは留保や躊躇ではないのです。この言葉自体は中身のない空虚な容器みたいなもので、それを口にする人の具体的なポジションや資格を同時に問いつめないと、時にそれ自体が正反対の暴力へと転化してしまう。
 立岩真也さんは『ALS 不動の身体と息する機械』で、過酷な状態を強いられたALS患者であれ、やはり「生きるのがいい」と言い切った――色々あるけれど医療/介護/所得は何とかなる、精神的苦痛も肉体的苦痛も何とかなる、と(こんな単純な言い方はしていないけど)。すごい本なんだけど、過酷で残酷な本でもあるって正直思った。これはきつい。生の無条件の肯定とは、逆に言えば、生の否定を倫理的に自他共にゆるさない、消極的安楽死だろうが積極的安楽死だろうがゆるさない――という意味だから。自分の実生活を公正に振り返って、単純に、それを口にする資格があるのかな。どうだろう?知り合いの顔を具体的に想像してみた時に?重度心身障害者や脳死状態にある人を前に、あるいは二四時間介護や経済負担の現場に自分が巻き込まれながら、その先でなお「生きろ」を貫けるかどうか。これは自分が障害・難病を持った場合にも等しく言える。
 これは「状況が変われば思想も変わる」(相対主義)とは少し違う。「正しさ」は実生活の重みとは違う水準にある、と言われるかもしれない。例えば近代の自由主義リベラリズム)では、それぞれの共同体の中でだけ通じる善(good)と普遍的な正義(justice)が区別され、後者は前者に優先する、とされる。でも現実の渦中に巻き込まれる限り、それらの区別は決して当たり前じゃない。後者が自己絶対化され万能の暴力へ転じる場合もあるから。デリダの正義論/暴力批判論は、最低限それを明らかにしたと思う。すると問いはその先で決断される一つひとつの実践――生活/正しさが同時に問われる原生地――にある。この水準を抜きに、ぼくは、今は正しさの問題を考えられないかな。