森恒二『ホーリーランド』、ザッカン



 ――「純粋な戦いの場など、そもそもあるのか。それは何かを捨象した結果ではないのか。」(「美しい日本の戦い」)


 大澤信亮氏は、「美しい日本の戦い」というエッセイでこう書いている、
戦後日本の主流マンガには「ライバルとの戦いの中で互いが成長し合うというテーマ」(殺し合い=友愛)が連綿とあり、かつそれは戦後の日米関係とも結び付いている、と。
 『アトム』『イガグリくん』『赤胴鈴之助』から『巨人の星』『あしたのジョー』を経て『ドラゴンボール』『ワンピース』『バガボンド』へと――。
 日本マンガの格闘もの形式は、むしろ、「殺し合い=友愛」をあいまいに密着させることで、本当の暴力や悪を描けなくする傾向があるのではないか。大切なのは、《友愛》に支えられた空間が、「殺し合い」の相互性に乗っかれない誰かを必ず排除すること、しかも見かけの暴力や戦闘ゆえに、真の空間的な暴力(悪)の残虐性を不可視化することだ。たとえば『はじめの一歩』の間柴や沢村といった「悪」の無残な頽落に象徴されるように。奇妙なことだが、メディア上に格闘シーンがあふれればあふれるほど、世の真の暴力の所在はわかりにくくなる。エッセンスが娯楽の中で消費され昇華(というか未消化)されてしまう。とすれば、現在の格闘マンガの繁茂と乱れ咲きは、何なのか。*1


 これを踏まえて、『ホーリーランド』10巻まで、について。


 神代ユウは、不登校・自殺未遂という脱落状態から、徹底的に具体的な抵抗暴力のスキル獲得(のプロセス)を通じ、蛇行を重ねつつ、自分の社会的な「居場所」を模索する。そのストリートファイトは(『あしたのジョー』以前の)少年漫画の伝統にもとづき、徹底的に「リアル」に書き込まれる。ジャブ、ストレート、サウスポーへのスイッチ、「右封じ」、ハイキック(ブラジリアン調)、肘、後ろ回し蹴り・・。現在の(『ワンピース』や『ナルト』などの空想ファンタジー格闘漫画ではない)格闘漫画でいえば、『バキ』等の現実離れした格闘漫画どころか、ボクシング史・現場取材を重ねた『はじめの一歩』等と比べても、殺伐とした実経験に裏付けられた『ホーリーランド』の知見や洞察(ナイフへの対処法や、空手の瓦割り・後ろ回し蹴りの起源に関する仮説など)は、はるかにリアリティを帯びている。
 面白いのは、ユウがつねに、具体的な「対戦者」を想定し、その人物に打ち勝つために具体的な技を考え、練り、鍛えあげていることであり(たとえば、剣道の達人タカにリーチ差をこえて打撃を与えるために後ろ回し蹴りをマスターしたり、天然の喧嘩屋カトーにグラップされた時の対案として、至近距離で使えるヒジの打撃を覚えたり)、かつそれを、別の対戦者との戦いの時にも「応用」し、組み合わせていく、という点だ。この(一つ一つの技の)特殊性が積み重なるプロセスに、ユウという格闘家の固有性が見出されていく。


 この作品には「自分たちの切実な悩みや苦しみが、より大きな目から見ると取るにたらないものにすぎない」「どこへもいけない」という構造的な感覚がある。不良たちの暴力、それに対抗するユウの対抗暴力、それらを巻き込む加害と被害の終りなき連鎖が、「大人」(警察とヤクザ)によって、いかようにも都合よく処理され、聖地と思われた場所が別の何か(社会性)に犯され汚染されていく。汚染は内側からも生じる。例えば物語初期のユウにとって「聖地」とは、誰ともたたかわなくてすむ男の子どうしの友情の場、親密圏を意味するが、これがイザワとの対決では、むしろ「誰にも邪魔されないで戦いあえる場」こそが純粋な「聖地」に転位する。つまり、無風の非暴力地帯と純粋な暴力の強度が共にホーリーランドと呼ばれる。後者はユウの「師」であると同時に鏡像的な「ライバル」でもあるマサキの言葉だが、ユウも暴力をめぐる両義的感覚を分有する――そして、ユウを導く「師」がマサキ一人ではなく、常に複数存在することも、他者の格闘技術のよい部分だけを貪欲に吸収するヌエ的なユウの特徴かも知れない――「ただ一人の師」(父である場合が多い)の不在は、近年の漫画の特性かもしれないが。
 この感覚は、今後の連載の中でどこへつきぬけていくだろう?


 おそらくユウの「真の敵」は、この世の最低限の「居場所」すら奪う何か、自分の特性や能力だけでなく、自分の存在そのものを許さない何かだ。その姿はまだ明晰には捉えられていない。


 ただ、見えない敵とたたかい続ける過程からユウは自分の具体的な居場所を徹底的に具体的に発見していくわけで、ある意味、この見えない敵は、次第に(もうたたかう必要のないものとして)自然消滅するのかもしれない*2。この作品の特性は「強さのインフレ」という少年漫画のマトリックスを、ラセン状に相対化しているところにある気がする。格闘技の強さなんて大人になったらもう意味がない、だけどそれにこだわり続ける自分たちがいる、それはなぜか、とマサキは淡々と問いかける。今のところこの作品内で最も強い者彼においてさえ強さが絶対的価値と必ずしも考えられない。「降りる」方がまっとうじゃないか、という懐疑の感覚が常時ある。ユウもこの問いに魂を掴まれ、何度もこの原点の懐疑へ揺り戻る。「殺し合いの螺旋」(『バガボンド』)から「降りる」回路は常にひらかれている。現在は「ストリートファイト/格闘技」の両軸を揺れ動くユウの未来は、まだ定まりがつかない。


 とはいえ、この作品のユウ(だけじゃないけど)の家族の描き方には、やや疑問がある。家族間に生じる葛藤や対決が殆ど描かれない。たんに「無理解な家族」のイメージだけでスルーされる。例えばユウの金銭・食事問題は描かれないし、家出という選択肢もない。自立主義を唱える気は全然ないが、やはり気になる。
 あるいはid:matsuiismさんがいうように、『ホーリーランド』では確かに、同年代の女の子の感覚が描かれない。「たとえば女性が生きのびるテクネーやメソッドは、彼の視野には入らない。女性の「強さ」とは何なのか、幸か不幸か、彼はまだ知らない」。ユウとマイの関係は現在微妙に深まっているが、マイの生存が生き生きとアクティブに描かれることはやはりない。女性格闘家も登場しない。徹底的に「男の子」の世界だ。この問いは、そして、柳瀬さんがいう「「ホーリーランド」にある具体性のリアリテイが階級や国境を越えるのかどうか考えてみたいです」と問いへ結びつく*3


 まとまりもないが、現時点でのノートとして。【後日、一部修正。】

*1:もう一つ気になるのは、例えば『ドラゴンボール』的な強さのインフレ(これはもう教養小説的な「成長」とも呼べない!)が、日本の高度成長・バブルを強く喚起させる点だ。近年の格闘ものの多くは、『ドラゴンボール』ほど異様に突出した形ではなくとも、このバブル感を共有する。ここには「物語」(by大塚英志)だけではなく、「資本」の構造=モーターが、たぶん根づいている。これも人から聞いた話だけれど、最近の中学生も『北斗の拳』(83〜88年)『ドラゴンボール』(84〜95年)などは普通に読める。感覚的に例えば現在進行形の『ワンピース』『ナルト』等と地続きになっている。でも『ジョー』(68年〜)『巨人の星』(66年〜)は、感覚的にすんなりは読めない。そこには何か異質な要素がある。それはなんだろうか。思いつきだが、「物語マンガ」と「資本マンガ」は違うのかもしれない。後者をたんに「ゲーム=RPG的」(by東浩紀)と言ってしまえば、例えば『ドラゴンボール』という異様きわまりない過剰な作品に象徴されるドライブ感を、やはり取り逃す気がする。というか、RPG的な感覚を規定する下部構造があるのではないか。このことは、後者のタイプのマンガが圧倒的に「長い」(厳密にいえば、いつまででも長く続けられる)ことと関わっているんだろうか。そして、このインフレ的なたたかいへの欲望が、「海賊王」を目指す『ワンピース』や「火影」を目指す『ナルト』の、言わば「新帝国主義」的な欲望へとつながっていく時、何が見えるのか。この辺を、分析的・歴史考証的に考えてみたい。

*2:『はじめの一歩』では、一歩は、最初は同級生からのイジメを克服するために「強くなる」ことを望んでボクシングを始めるが、いつからか、完全に世間からアイデンティティを承認され人気者となり、この初志=動機の位置を完全に失い、「強いって何ですか?」という抽象的な問いしか持ちえなくなる。ひたすら他者への同調を拒みハングリーな『あしたのジョー』前半部のジョーや「父を倒した他者を倒す」ことを至上命令に置く『がんばれ元気』の元気とくらべても、一歩が無制限にたたかい続ける動機は極めて希薄であり、宮田というライバルの存在(そしてその奥にすけてみえる、伊達を倒した怪物的世界チャンピオンのリカルド・マルチネス)だけが、かろうじて彼の超人的努力と戦闘意欲を支えているように見える。

*3:格闘技漫画では、格闘技が何らかのナショナリティを背負っている場合が多い。多くは格闘技を「日本精神」と結び付けるし、『はじめの一歩』でさえ、その内容は露骨なまでに「日米関係」に規定される(この作品でのアジア系ボクサーの貧弱な描かれ方は、時に読む者を不快にさせる)。これに対し、『ホーリーランド』では、格闘技がナショナリティを全く背負わない。即物的な戦闘スキルとして形式化されている。その意味で「無国籍的」(という九〇年代日本的感覚?)だが、これが雑種性やノイズをはらむ多国籍性へひらかれることはあるだろうか。