『ドラえもん のび太と鉄人兵団』の感想



 思うところがあり、映画『ドラえもん のび太と鉄人兵団』(一九八六年の旧版)の感想を書きとめておきます。
 漫画家の篠房六郎さんの『鉄人兵団』感想が素晴らしいので、まずはそちらの一読をお勧めします(http://togetter.com/li/110187)。
 それから、こちら(http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20110103/p1)の、ドラえもん長編映画全作レビューがとても労作。




 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』のモチーフの一つは、この国の戦後史に内在する重層的な暴力を描くことにある。この映画はすでに、「異世界での冒険によって少年少女が成長する」というジュブナイル物語の定型を、かなり逸脱している。歴史の重層的な暴力は、私たちの戦後的な「日常」そのものにある。にもかかわらず、私たちはこの日本の戦後的な「日常」を超える価値をいまだに見出せないのではないか――『鉄人兵団』は、そうした日本の「戦後」の歴史のねじれを遡行的に問い直している。
 たとえばのび太たちは物語の中で、地球人を奴隷にしようとするロボットたちを、鏡面世界の中へと誘い込む。鏡面世界の中なら、どんなに町が破壊されても、現実の世界に被害が及ぶことはないからである。しかしここには不穏な何かがある。そもそものび太たちが無邪気にスーパーの商品を盗みながら、鏡面世界の街や商品に対しては「何をしても平気」(盗んだし壊したりしても)と言い切ることにも、どこか危ういものがあった。
 のび太たちは(映画の観客である私たちは)、鉄人たちと戦ううちに、鉄人たちが冷酷無比な悪魔でも残虐なテロリストでもなく、人間たちと同じように心もあるし、様々なことに悩み、葛藤する存在である、と気付かされていく。特に鉄人と人間のはざまで葛藤する少女リルルを通して。つまり、人間と鉄人たちこそが鏡像関係にあるのだ(現実世界‐鏡面世界、人間‐と鉄人、という二重の鏡像関係)。
 リルルは、自分たちの惑星メカトピアの歴史=神話をこんなふうに語る。はるか昔、メカトピアの人間達は滅びた。人間はわがままで、欲張りで、憎み合い、殺しあった。神は人間を見捨て、代わりにアムとイムというロボットを作った。神は「お前達で天国のような社会を作りなさい」と命じた。その後、ロボットの中にも、金持ち・貴族と奴隷という階級が生じた。しかしやがてみんな平等なはずだという考えが広まり、奴隷制度は廃止された。しかし、社会の存続のために新しい労働力が必要なので、地球の人間たちを使うことにした。ロボットは神の子であり、宇宙はロボットのためにある。
 それを聞いたしずかは、ぽつりと言う。「まるっきり人間の歴史じゃない。神様もさぞガッカリなさったでしょうね」。このしずかの一言に、リルルは激怒する。しかし重要なのは、しずかの言葉がメカトピアをバカにするものではなく内省的なものであること、人間(観客)の側に直ちに跳ね返ってくるものであることなのだ。
 そもそも、ドラえもん映画には、生物進化の歴史を創世記から無限にやり直す、という不気味なオブセッションがある(これはフロイトの『モーセ一神教』を思い起こさせるだろう)。しかし、別の人類の歴史(パラレルワールド)だろうが、人間とは別の生命体から進化した生物だろうが、結局、その歴史は現在の人類とかわりばえのない結果に終わる。ここにあるのは、恐ろしいほどのニヒリズムである(藤子・F・不二雄の名作短編「分岐点」などを思い出そう)。
 リルルは、ロボット兵団のボスのところへ戻って、人間の奴隷化計画に反対する。私たちは自分たちだけ、ロボットだけの天国ではなく、宇宙の全ての生命の天国を作るべきです。すべての生命の幸福を望むべきではないか。それが神の本当の命令ではないか、と。人間から差別され、上流階級のロボットたちからも差別されてきたリルルが、人間やロボットをふくむ全ての存在の「天国」を心から望むのだ。反抗すれば、ただちに反逆罪に問われる状況下で。
 結局のび太たちは戦力的には鉄人に勝てない。ミクロスの「神様に文句を言いたい」という一言をヒントに、しずかたちが、タイムマシンでメカトピアの創世期に戻り、神様に何とかしてほしいとお願いすることになる。これは本来、物語としては完全に禁じ手であるだろう(事実『魔界大冒険』では、もしもボックスで魔法世界をなかったことにするのは、それだけは、禁じ手とされていた)。恐ろしい話である。人間もロボットだろうが、創世記的な神に頼らないと、進化と進歩の歴史をいちばん最初から(三万年前から!)やり直すのでないと、この殺し合いの螺旋は止まらないのだから。
 神(人間に絶望しロボットのユートピアを夢見た科学者)はアムとイムを改造し、他人を思いやる同情の気持ちを植えつけ、進化の方向を修正する。その結果、リルルをふくむ鉄人兵団は全て宇宙の歴史から跡形もなく消える。しかし、ふと思う。面倒なものや敵は全て抹消する、消してもいい、という精神のあり方こそが、私たちの歴史の究極の暴力なのではないか、と。
 老いた科学者は、作業を完成する前に老衰で倒れてしまう。神=科学者の作業をリルルが続ける。「静さん、私が本当の天国を作るのよ。そして私はメカトピアの天使になるの」。その間も地球上では、鉄人兵団とドラえもんたちは陰惨な殺し合いを続けている。やがてドラえもんたちは敗北寸前に追い込まれる。もうだめなのか。そのとき、鉄人たちが突然、消滅してしまう。ロボットたちの歴史そのものがなかったことにされたからだ。リルル「今度生まれ変わる時は天使のようなロボットに」、しずか「あなたは今、天使みたいよ」「友達よ」。リルルもまた消滅する。
 人間の殺し合いの歴史にうんざりした科学者が、奴隷=ロボットたちのユートピアを作ろうとするが、ロボットたちも3万年をかけて人間と同じような歴史を反復し、それを止めるには、最初に戻って、全てを消滅させ、歴史抹消するしかない……。なんという物語なのだろう。まさに存在の痕跡すら残さず全てを浄化する「神的暴力」の発動。
 メカトピアはユートピアになったのではない。たんに、この宇宙から消滅したのだ。痕跡すら残さず。歴史修正されたメカトピアの様子は映画の中には出てこない。リルルが「天使」になったと、のび太が幻視しただけだ。
 大切なのは次のことだろう。鉄人と人間たちが血みどろの戦争を続けるディストピアが、わずか鏡一枚を隔てて、私たちの世界のすぐ「隣り」に広がっている、ということ。ドラえもん映画では基本的に、高度成長期以降の日本的な「この日常」は永遠に反復し続ける「終らない日常」であり(ドラえもんのアニメ自体が無限反復の中にあり、むしろ生身の人間=声優自体の肉体の崩壊によってしか歯止めをかけられない)、破壊されえないものだった。しかし、つねに、すぐ傍の過去/宇宙/別世界では、世界全体を崩壊させかねない凄まじい暴力や戦争が生じている。私たちはそれを意識も自覚もできない。そういうねじれたリアリティ。それはおそらく、リプレイ系の物語の頂点をなす『ビューティフルドリーマー』や『エンドレスエイト』ですら獲得できなかったタイプの想像力だった。
 ならば天国とは何か。地獄とは。きっと、天国とは、宇宙のどこかの惑星や異次元ではなく、高度成長期以降の日本の「この日常」(煉獄)のことなのだ。人間の暴力、鉄人の暴力、未来(ドラえもんの時代)の暴力などが、複雑に入り雑じりながら、かろうじて、この「日常」が成り立っている。『鉄人兵団』をみるとき、私たちはそうした「日常」への覚醒的な想像力を叩き込まれる。さらにいえば、スクリーンの中のアニメのキャラクターたちがどんなに闘おうが苦しもうが、無傷でそれを楽しめてしまう、観客としての自分たちへの問い直しをすら迫るものだろう(映画版には、一箇所、スクリーンの中のドラえもんが観客に語りかける、というメタ的な場面がある)。
 リルルというロボット少女の最後の天使的な自己犠牲に感動した――というふうにこの映画をみることはできない。「戦闘美少女の自己犠牲によって世界が浄化される」というオタク的な欲望に違和感がある、というだけではない(最近では、『魔法少女まどか★マギカ』の最後のまどかのイエス的な自己犠牲の発動に関しても、同じ感想を持った)。映画を見終えたあとの、言葉にならない嫌な感じ。この映画では、本当に何かが解決したのだろうか。藤子氏の、何重もの〈悪意〉を感じた。「人間の底もない悪意」(ネテロ会長)を。正直、これは、喜んで子どもにみせたい映画とはいえない。
 1990年代初期の『アニマル惑星』『雲の王国』『ブリキの迷宮』等では、環境問題への言及がなされるが、ドラえもんシリーズのポイントは、科学文明や環境破壊への批判が、そのまま、未来世界やドラえもんの存在根拠を掘り崩してしまう、という痛みにある。事実『ドラビアンナイト』『雲の王国』『ブリキの迷宮』では、四次元ポケットが使えなくなったり、ドラえもん自身が拷問をうけて機能停止したりする(『ブリキの迷宮』ではドラえもんは、のび太に繰り返し、道具に頼るな、と言う)。やがて、のび太は次の問いの前に自然に立たされていく――自分にとっては未来の道具が大切なのか、たとえ「ポッケのないドラえもん」(筋肉少女帯)だとしても「ただのドラえもん」の方が大切なのか、と。映画の中でこの問題が深く突き詰められたとは思わない。しかしやはり不穏な問いだと思う。